「おいお~いお茶ぁ」

お茶ぁさんに対しての反抗期は無かったんですけど、お茶は私に対して反抗していたんじゃないかと思う時があるんです。「自動販売機で炭酸買うかね」とか、「お茶の方がヘルシーでそんなに高くもないぞ」とかね。静岡県で仕事をしている時に、ブラックコーヒーばかり飲んでいたのは、Teaサイドとしては「やってくれたね」と。幼少期の身体をお茶とご飯で作って来たのに、そこそこのシティに出ればそんな感じなんですねと、見透かされているようで。やっぱりお茶は、マザーシップなわけで、お茶とお菓子をつまみながら人と話したり、ねぇどのお茶にする?なんてことを楽しむのは普遍的な交流の在り方だと思うんですね。仮に、お茶をロックだとしましょう。緑茶や烏龍茶のようなオールドスクールな大御所も、それに影響を受けたオルタナティブな若手のブレンドも、棚に居るだけじゃ収まらない。もっと飛び出したい。ニューヨークでは紙のコーヒーカップを持って歩いている人が多いかも知れない、なら、東京では紙のティーカップにどんなお茶を入れて歩いてもいいじゃないですか。静岡ニューウェーブ、サイケデリック京都、もうその芽は出ているのかも知れません。お茶の長い歴史の中で、茶道の大家からすれば、クラシカルに様式美を残してもいきたいという矜持もあるでしょう。それは、人間からの見方で、茶葉の実りに目を凝らせば、自然であり有機物であり美術であり、ほんとうのところ、この賜り物を前にして人間は悩むと思うんです。絶対に美味しくなる。でもその方法が見付からない。人間が聞き取れない周波数で発しているはずです。お茶を取り巻く人間たちの違和感、一生の中でどれくらい気が付くことが出来るでしょう。

そくらてつお

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