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ショートショート 『人生のタイミング』
落ち着いた暗めの照明の下、男たちはグラスをゆっくりと傾けていた。
「だから、僕は退職を待ってから行動するのは遅いって考えたんだ」
ブランド物のワイシャツをスマートに着こなした飯島先輩は、やんわりと諭すような口調で続けた。
「このまま副部長から部長に昇進したとしても、退職金にそんなに違いはない。だったら、健康なうちに自分で会社を立ち上げちまおうってね」
「いやあ、さすが飯島さん!そこで会社を立ち上げようって思わないですよ〜」
太鼓持ちが上手い相原が、声を張り上げてヨイショする。そこから話題は、法人設立のノウハウへ移っていった。
俺、三井裕一は、たまたま塾でヤマが大当たりしたおかげで、運良く有名な大学に合格できた。そのネームバリューおかげで、その後の人生はわりとイージーモードだった。
今日、大学のOB会に参加しているのは母校愛があるからではない。サークル仲間だった相原に、強制的につれてこられただけだ。
さすが有名校のOB会だけあって、会場は都内の一流クラブ貸し切り。普段の俺なら敷居が高くて入れないような店構えだが、卒業生の顔で利用できているのだろう。
参加者はどれも生活に余裕があり、いかにもビジネスが勢いに乗っているといった雰囲気だった。
「どこそこの取引が……」「海外支店が盛況でね……」と、耳に心地よい話が声高に飛び交っている。
安定はしてはいるが、しがないサラリーマンの俺は、そんな輪から少し離れ、起業を成功させたグループに混じっていた。
飯島さんは50代に超一流証券会社を退職し、今はマーケティング会社を立ち上げて忙しそうだった。
「売れないものでも、僕なら必ず売れるようにしてみせるよ」
ニヤリと笑いながら、飯島さんはグラスを傾ける。
そこから、飯島さんが退職を決めた時の周囲の反応やトラブル話を聞いていたのだが、相原が茶々を入れるせいで、話はあちこちに飛んでいた。
「あの……、先程の退職のタイミングのお話ですが。そのきっかけを伺ってもいいですか?」
恐る恐る尋ねると、飯島さんはグラスを軽く上げ、
「いいよ。きっかけは、寿命タイマーとねんきん定期便」と、さらりと言った。
「え?ねんきん定期便?」
「寿命タイマーってなんすか?」
俺と相原が同時に声を上げる。
飯島さんはぷはっと笑い、その拍子にウィスキーがグラスから数滴こぼれた。相原はすかさずお手拭きを手渡す。
「ありがとう。サイトやアプリでもあるんで、ちょっとやってみたらいいよ。いや、別にそんなことしなくても、平均寿命から今の年齢を引くだけさ。あと三十年?いや、そんなにないか。それを見て、思ったんだ。退職してからだとたった十年、十五年……、少ないな、って」
相原は隣でスマホを取り出し、アプリを探し始めている。話を聞けよ、と思ったが口にはしない。
「僕はもともと、マーケティングをやってみたかったんだよね。証券会社って売る側メインなんだけど、その前というか、中の仕組みに興味があったんだ。コンテンツがあって、『これは売れる』と思ったら、売らせたいし、届けたい。そう思っていたんだ」
飯島さんがじっと俺を見た。思わず背筋を伸ばしてしまったのは、その視線に値踏みされているような感覚を覚えたからだ。
「で、退職して、そこから、一から人脈広げてたら何年かかる?体制が整うまで時間がかかって、やりたいことがすぐにスタートしない。今から何か始めないと、と思ったときに届いたのが、ねんきん定期便」
水色の手紙なら、俺にも届いていた。
正直、「こんなものか」と思っただけで捨ててしまったけど。
「年金が思ったより少ないな、と思ったんだよね。会社と折半しているはずなのに、少なすぎないか?と。悠々自適に過ごすには、これじゃ足りない訳よ。いや、それ以前に……。そもそも僕は、働くことを辞めるつもりはなかったんだよね。何かしらで働き続けたいと思っていた」
「退職金の相場は先輩から聞いて知ってたから、計算してみた。そしたら、そんなに変わらなかった。1000万、2000万も違わない。だったら、今からマーケティングの礎を築いて始めた方が、絶対利益が大きい。体力的にも、時間的にもロスが少ないし、リスクも少ない。『もうやるしかない』ってなったよね」
飯島さんは少年のような微笑みを見せた。
今までは先輩らしい落ち着いた雰囲気だったのに、ここで無邪気な笑みを見せるのは、なんだかずるいなと思った。
(退職する方が楽しそうじゃないか……)
俺の退職はまだ12年も先のことだし、その後のことなんて深く考えたこともなかった。
(少しだけシニア社員で働いて、年金をもらったらゆっくりしようか……)
その程度の想像しかしていなかった。退職金はほとんど住宅ローンに消えるだろう。それを考えると、老後も何かしらのアルバイトをしたほうがいいに決まっている。
「あはは、急に真剣になるなよ。あ、僕のせいか?僕が証券会社、金融機関にいたっていうのも理由かもしれないな」
「老後に必要な数字とか自然とデータが入ってきてたからね。年金2000万問題ってあったけど、あれって今すぐ貯金しろって話じゃない。人生100年が現実的になった今だから、それを考えたらトータルでそれくらいかかるってことさ」
「子どもが私立に行くのに1000万かかるってデータがあるけど、じゃあ、1000万貯金してる家庭しか私立に行けないかっていうと、そうじゃないだろ?最終的に1000万かかったかもしれないけど、その時その時でやりくりしてきたはずだ。まあ、こういう統計データは、金融機関が声をかけやすいようにできているんだよ」
「へ〜」と相辻を打ちながらも、気遣いの相原はサッと飯島さんのウィスキーを追加オーダーしていた。俺もついでに生ビールを頼む。
「お金だけの問題じゃないにしろ、君だって、退職した後も何かしたいって思ってるだろ?」
「そうですね。恥ずかしながら、今すぐ『これをしよう』とは考えていませんでしたが……。まあ、再雇用でもいいかな、とは思ってました」
「再雇用だっていいところ5年。今の会社しか知らないって訳にはいかないだろ?外にも仕事はあるんだから」
(確かに……)
とんとん拍子で今の会社に決まり、安定していたからリストラや倒産の心配も一切なかった。他の会社を知らない、という言葉が妙に身につまされる。学生時代も、特にバイトらしいバイトもしていないし……。
(今更、他の会社で勤まるんだろうか……?)
相原が俺の背中をポンっと叩いた。
「なんだ〜?三井、心配か?だったら、俺が雇ってやるよ?」
「へ?お前、なんか会社やってたの?」
相原は自分自身を指さした。
「俺の介護職員」
飯島さんも、俺も、吹き出した。
相原に無理やり連れてこられたOB会だったけど、来て良かったかもしれない。自分の人生について考える、良いきっかけになった。
「俺のきっかけは、OB会ですね」
飯島さんが親指を立てて見せる。
「おっ!やっと笑ったな。一度きりの人生なんだから、楽しく使いきらなきゃ!」
俺たちは改めてグラスを掲げた。
自分の人生に、スタートの乾杯!