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ショートショート 『3割はすごい』

 英理が夕飯を作っていると、キッチンの隅っこで瑛二がもじもじと立っていた。炒め物に取り掛かっていた英理は息子の方を見ないまま「何?夕飯はまだよ」と言い放つ。
「うん……」
 それでもまだ何か言いたそうにしている息子に顔を向けると、何かを後ろ手に隠すようにして立っている。あきらかに怪しい。
 英理は火を止めて、息子に顔を近づけた。
「なあに?後ろに何か隠してるの?」
 瑛二はゆっくりプリントを出した。
 算数のプリントの右上部には「30」の数字。
「はあ?」
 英理は怖い表情を隠さず、プリントをテーブルに叩きつけた。
「瑛二、この点数はどういうこと?」
 レンジに戻り、炒め物の続きに取り掛かりながら英理は瑛二に尋ねた。本来ならテーブルの前で正座をさせてこの点数に至った理由を聞きたいところだ。
 しかし、今は夕飯タイム。手を止めることはその後のスケジュールに響く。瑛二の宿題、お風呂、就寝時間が控えているし、英理もそれに合わせてタスクを抱えている。
「えっと、分数が苦手なんだ……」
「苦手なのは知ってます。だから公文にも通っているでしょ?」
 瑛二は(好きで通っているわけじゃない)と言いたいのを堪えて、何か言わないといけない雰囲気を察し、無理やり搾り出して返事した。
「……うん」
「先生にお願いしてそのあたりを念入りにやってもらっているんじゃなかった?あとで公文のプリントも見せて」
「……うん」
 ジュージューと焼ける音と一緒にフライパンから良い匂いがする。お腹が空いていた瑛二は、落ち込んだ振りが続けられずソワソワし出した。
「苦手だからっていつまでも逃げてちゃダメじゃない?この先には分数以上の強者が控えているんだからね!」
 険悪な雰囲気の中、仕事から帰宅した晴明がキッチンにやってきた。
「ただいま〜。お?どうしたんだ、瑛二」
「パパ、これ見てちょうだい!」
 おかえりも言わずに英理は、テーブルの上の算数のプリントを夫に指差して見せた。
「どれどれ、はあ、算数か」
 英理が怒っている理由に気づき、晴明はいつもと違って塩らしい息子を見下ろした。
 英理が味噌汁を温めるために背中を向けているのを良いことに、瑛二は両方の指を立てて、左右の頭に当てて母親が鬼になっていると表現。晴明も仕方ないというようにプリントの30点を指して、手でバツサインを作る。
「あんたたち、何してんの?」
「あ、ああ、なんでもないよ。なあ、瑛二?」
「うん」
 晴明はプリントに目をやって、ミスしたところを確認する。根本的に理解ができていないミスが多かった。
「瑛二、分数は便利で、例えば丸いケーキを3人で分ける時に、ひとり何グラムって計算しなくても表せる方法だよ」
「ふうん?」
「だからね、例えばケーキ一切れ235グラムって表さないで、3分の1って表示すればいい」
「重さはいらないの?上のチョコレートは?」
「チョコは抜いておいて欲しいな〜。ということで、分数は数字の別の表し方なんだ。見え方が変わるだろ?」
 晴明はプリントの30を指差した。
「これを分数に考えると、100点中の30点は、10分の3になる」
「へえ!」
「メジャーリーガーの大谷翔平の打率はだいたい3割なんだけど、3割って分数で表すと100分の30。約して10分の3で、お前のテストと同じだな。すごい選手でも打率3割なんだよな〜」
「ってことは、僕もすごいの?」
 英理が悲鳴をあげる。
「え??ちょっと、どうしてそうなるのよ!」
「3割もできたからすごいんでしょ!」
「いや、ちょっと待ちなさい!打率と算数を一緒にしない!」
 瑛二はムスッとする。
「だって、すごい一流のバッターが100点じゃないんだから、僕だって100点取れなくっても、30点もできてるんだからすごいってことでしょ?」
 英理は頭を抱えた。隣で晴明が笑っている。
「すごいかもな」
「ちょっと!そんないい加減なことを瑛二に教えないで」
 瑛二はにっこりする。
「パパが前に人生は数字なんて気にしないって言ってた」
「いやいや、ここは気にしてちょうだい」
「苦手なことでも10分の3もできててすごいよね!」
「そのポジティブマインド〜。どこで拾った!」
「パパが前にお給料の5分の2が税金で取られてる可哀想なサラリーマンって言ってたよね!数字にしたらいくら?」
「パパ!子どもになんてこと教えてるのよ!!」
 
 そのあと晴明は瑛二に算数を教える羽目になった。
 分数を教えている晴明に、英理がいつものように焼酎を渡す。
「なんだ、今日の焼酎は薄いな」
「すごいらしいので、3割で割りました」
 


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