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ショートショート 『マスターのコーヒー』
「カラン・コロン……」
入り口のドアベルが鳴る。重厚な木の扉を引き開けると、鼻をくすぐるコーヒー豆の香りが漂ってきた。
「あ!ホシさん、おかえりなさい」
カウンターの奥で、初老のマスターが顔を上げ、微笑む。
「やあ、マスター。久しぶりに来たよ。いつもので」
マスターの前の席に腰を下ろすと、アルバイトのお姉さんが静かにお冷を置いた。
「いらっしゃいませ」
マスターが軽く頷いてオーダー済みだと合図すると、お姉さんは小さく会釈し、戻っていく。
「仕事がやっとひと段落してね。終わると、無性にマスターのコーヒーが飲みたくなるんだよな」
「お疲れ様でした。そう言われると、今日もコーヒーを淹れてよかったと思えます」
マスターはふっと微笑んだ。
駅前にある、この小さな喫茶店に通い始めて、かれこれ20年。この街に引っ越してすぐ、雨宿りで入ったのがきっかけだった。
今でこそマスターとは気楽に話しているが、こんな会話ができるようになったのはつい最近のこと。
「ブラジルで」「ご馳走さん」
それ以外の会話をしたのは、そう、あの時だ———
それは、今から7年ほど前のこと。
原稿のネタ探しに苦戦していた私は、気分転換に外に飛び出した。昼過ぎのピークが過ぎた頃を狙い、ノートパソコン片手にこの喫茶店の扉を開けた。
その日の私は、完璧にスランプに陥っていた。しかも、納期は3日。
「この内容で3日って……無茶だよ〜」
泣きたい気分になりつつ、環境が変われば良いネタが浮かぶかもしれないと期待していた。もしくは、ただの現実逃避かもしれない。
オーダーに来たバイトさんに「ブラジル」と伝え、パソコンを開く。ドキュメントは、ほぼ真っ白。家を出る前から1行も増えていない。絶望だ。
程なくして、湯気を立てた出来立てのコーヒーが運ばれてきた。
そのまま、何も入れずにブラックで飲む。焼けるような熱さが喉を通り、コーヒーの風味が口いっぱいに広がった。
(この熱さ!喉と胃に沁みる)
「くう〜」
思わず、小さく唸る。ここでは、いつ来ても熱々のコーヒーが飲める。だから、やめられない。
(コーヒーはこうでなくては!!)
近所の喫茶店だと、生ぬるいコーヒーが出てくる。もはや、そんなのでは満足できない。
やっぱり、ここの舌が火傷しそうなくらい熱いコーヒーでこそ、満たされる。
そんな至福のひとときを過ごしていると、レジの方から怒鳴り声が聞こえた。
「普通な、こうゆうときは『いってらっしゃいませ』っていうもんだ!ここは接客がなってない!」
私を含め、店内の客が一斉にその男の方を見た。可哀想に、レジのお姉さんはすっかり縮こまっている。
「まず、客が来たら全員で『お帰りなさい』だろ?おもてなしができてない!客の目ぇ見て、挨拶しろや!」
どうやら、接客態度に不満があるらしい。
……いや、それだけじゃないな。私が来たときから、この男はイライラした様子で、貧乏ゆすりをしていた。この手のタイプは、八つ当たりをすることが多い。
カウンターからマスターがサッと出てきて、お客とバイトの間に入った。
「お客様、大変失礼いたしました。何かお気に召さない点がございましたでしょうか?」
「ああ?だから。ここの接客がなってないんだよ!普通、客が来たら『お帰りなさい』、帰るときは『いってらっしゃいませ』だろ?」
この客は、お金を払えば偉いと勘違いしているのだろうか?店内に不穏な空気が漂う。
マスターはゆっくりうなづきながら、穏やかに言った。
「ご指摘くださり、ありがとうございます。他にもございますでしょうか?」
「ああ?あ〜、客が来たら、みんなで迎えるもんだ!」
「承知いたしました。貴重なご意見、ありがとうございます」
マスターは笑顔を崩さず、もう一度静かに言った。
「他にもございますでしょうか?この機会に、ぜひともご意見を頂戴したいと思います」
これには、流石の男も辟易したのか、
「あとは……、どうしたら客が喜ぶか、自分たちで考えるんだな!」
そう怒鳴り、店を出て行った。
「カラン・カラン・カラン……」
ドアベルが激しく鳴り、重い木の扉が閉まると、店内に安堵の空気が流れた。マスターがバイトのお姉さんに何か話しかけると、彼女はうなづき、奥へと消えていった。少し休憩するように伝えたのだろう。
私は、やや冷めてしまったコーヒーを口に運びながら、マスターの大人な対応に感心する。
マスターのコーヒーがひときわ美味しく感じるのは、彼の人柄が溶け込んでいるからだろうか……。この深い味わいは彼にしか出せない。
その日のレジは、マスターが対応してくれた。
「今日は飛んだ災難だったね。全員で挨拶って、居酒屋じゃないんだから。ここには合わないよ」
思わず言葉をかけると、マスターは柔らかい口調で答えた。
「温かいお言葉、ありがとうございます。ですが、たったお一人でもご希望されているのでしたら、お金のかかることでもありませんし、お店の雰囲気を壊さない範囲で試してみようかと思います」
そして、コホンと軽く咳払いをし、
「行ってらっしゃいませ」と少し照れくさそうに言った。
——そんなことがあったなあ。
あれから、マスターはぎこちないながらも「おかえりなさい」と「行ってらっしゃい」を続けた。でも、それをするのは自分だけと決めていて、バイトさんには普通の挨拶をさせている。
思い出に浸ること10数分。すでにコーヒーは胃袋の中に消えている。
今日もまた、充実した時間を過ごすことができた。
美味しかった、の代わりに「また来るよ」と言って席を立つ。
「ぜひまたいらしてください。お気をつけてお帰りくださいませ」
会計を済ませ、扉に手をかけた時———
「行ってらっしゃいませ」
今ではすっかり板についた、耳に馴染んだ響きが、私の背中を押した。
「カラン・コロン……」