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ショートショート 『青リンゴの香り』

 蝉が鳴いていた。
 
 通学路脇のリンゴ畑ではまだ青いリンゴが、太陽のエネルギーと一緒に蝉の声も吸収して大きく実っているようだった。

 茹だるような暑い陽射しにうんざりしながら、何度目かの「あっづぅ〜いぃ」と声をあげたのは友人の芽衣子だ。

 「暑い」と言う気力すら失っていた私は、ため息をついた。

(何も言いたくない……)

 言えば言うほど、カバンの中の教科書が重くなるような気がした。

 通学路を横切る赤松の林まで来ると、日陰ができて、涼しく感じる。私たちはちょっと足を止めて、微かな涼を愉しんだ。

「私、今日、綾ちゃんのこと好きだなって思った」

 おもむろに。

 芽衣子はいつもの口調で、屈託なく、突然そう言った。

「は?え?あの……。芽衣子って同性愛者だったの?」

 びっくりして動揺している私を見て、芽衣子はケラケラと笑った。

「違うよう。それって、性別を重んじるでしょ?綾ちゃんが男子だったとしてもそう思ったと思うから、違います」

 その違いがよくわからず、困惑している私を無視して芽衣子は続けた。

「今日さ、みんなが嫌がっていた執行委員を綾ちゃんがサッと手を挙げて引き受けたじゃん。そんな綾ちゃんを見て、こう、キュンとしたのね。人として尊敬できるって。そういう意味の好き、だよ」

 喜んでいいのか、警戒した方がいいのか迷っている私とは別に、芽衣子は真っ直ぐ私を見た。純粋無垢な輝きを宿した瞳が、キラキラと輝いている。

「好きだなと思った人の性別が、たまたま女子だっただけ。ただ、それだけのこと」
「まあ、そうだね……」
「もし、綾ちゃんが男子でも。きっと好きって思ったし、だからって、そうね〜、欲情するかっていうとしないと思う」
「欲情……」

 きれいな単語で言い表したけど、まあ、そういうことだろう。

 心地よい風が吹き、芽衣子の肩までの髪と制服のスカートが波打った。

 どちらからともなく、歩き出す。赤松の林を抜けると、直射日光が降り注ぎ、また蝉の声が大きくなった。

「あっづぅう〜い」

 再び、芽衣子は飽きず懲りず「暑い」と言い続けた。

 「好き」という言葉に敏感になりすぎだろうか。芽衣子を変に意識してしまう。

 しかし、当の芽衣子は全くいつもと変わらない。最近ハマっているグループの誰それの新曲が良いとか、最近雑誌に載ったインタビューの話題を始めている。



 通学路脇のリンゴ畑から、まだ酸っぱい青リンゴの香りが風に運ばれて、私の鼻をくすぐった。

 焚き付けたのは芽衣子のくせに、私の方がドキドキしている。

 なんだか悔しい気持ちになりつつ、芽衣子の話を聞くともなく聞いていた。

 突然、何がおかしいのか芽衣子は大笑いし、その様子がおかしくて釣られてこっちも笑ってしまう。

 芽衣子のそんなところが、私も好きだ。
 だからって、芽衣子みたいに言わないけどね。

 あ、そうそう、私だって欲情はしない。芽衣子よりももっと好きだと思える男性をいつか見つけるんだ……


 これは、ある夏の日の思い出。

 心の隅っこで、今も色褪せない。
 
 あの時の青リンゴの香りに包まれたままで……



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