なぜ二郎は“苦悩”しないのか 『風立ちぬ』が描いたものの考察
金曜日に放送された映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎について考察してみました。
宮崎駿監督は、編集者・音楽評論家の渋谷陽一が『風立ちぬ』について「この映画は、戦争が大きなテーマになっているんですけども」と問うたのに対して、「戦争そのものじゃないですけどね。モダニズムですよね」と答えている。この「モダニズム」は『風立ちぬ』を理解する上で重要なキーワードだ。『風立ちぬ』は「モダニズム」を接点にして、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)や宮崎自身の監督作である『もののけ姫』と繋がっている。
「目の前に果てしない道が開けたような気がします」
『風立ちぬ』は零戦を設計したことで知られる設計技師・堀越二郎にインスパイアされた作品だ。本作の主人公・堀越二郎は、実在の人物と同じく軍用機開発に携わってはいるものの、その人生には小説家の堀辰雄の小説のモチーフが組み入れられている。堀は堀越と同時期に東京帝国大学に在学していた同時代人である。
『風立ちぬ』は、結核で婚約者を失うという展開とタイトルを堀の代表作『風立ちぬ』から取り入れ、さらにヒロインの名前を小説『菜穂子』から採用して出来上がっている。つまり映画の堀越二郎は、ほぼ虚構の人物なのだ。
二郎が取り組むのは、欧米の技術と伍する近代的戦闘機を作り上げるという課題である。序盤で就職したての二郎は、上司の黒川から、隼型試作戦闘機の失敗の理由について問われ、次のように答える。
「いいえ。問題はもっと深く、広く、遠くにあると思います。……今日、自分は深い感銘を受けました。目の前に果てしない道が開けたような気がします」
この道こそが「近代化」の道のりである。そして1935年、二郎は九試単座戦闘機の試験飛行を成功させる。絵コンテはそこに「ここに日本にはじめて近代的戦闘機が誕生したのである」というト書きが記してある。宮崎が『風立ちぬ』を「モダニズムの映画」と答えたのは、このように近代化=モダニズムを求めていく二郎の姿を描いたからだ。
白い雲を見つめる人々
この二郎の姿は司馬遼太郎の書いた『坂の上の雲』の登場人物たちを連想させる。『坂の上の雲』は明治を舞台に、欧州列強といかに伍すことができるかに挑んだ明治人たちの群像劇で、まさに近代化が主題といえる作品だからだ。
司馬は『坂の上の雲』第1巻のあとがきでこのように書いている。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」
この“雲”こそが近代化のことであり、「それのみをみつめて」いく姿は近代的戦闘機を求める二郎の姿と響き合うものがある。
また評論家の浅羽通明は『ナショナリズム』(ちくま新書)で、『坂の上の雲』を題に司馬が描く「有能」とは、リアリズムとイノベーションだと指摘する。「言い換えれば、客観的合理的な思索力と慣例常識を打破する創造力とである」(同書)。この思索力と創造力もまた二郎が備えている美質である。
勝利が待っていた『坂の上の雲』に対し、二郎を待っていたのは…
このように二郎は「近代化」の担い手という点で『坂の上の雲』の登場人物たちととても親しい存在なのだ。だが一方で、二郎と『坂の上の雲』の登場人物には大きな違いがある。『坂の上の雲』の“楽天家”たちを待っていたのは、日露戦争での勝利という栄光であったが、二郎を待っていたのはまったく違う未来だった。
九試単座戦闘機の試験飛行の成功を描いた次のカットは空を覆うほどの巨大な黒煙から始まる。この黒煙は、B‐29の空襲により、燃え上がる街から立ち上っているものだ。敗戦を象徴するこの黒煙こそが、二郎を待っていた“雲”なのだ。
しかもこの黒煙は、実は映画序盤に出てくる関東大震災のシーンの黒煙と同じ素材が使われている(手前の人物や風景はまた別のものになっている)。関東大震災は大正デモクラシーが退潮する転換点。つまりこの映画は大正デモクラシーの終焉から太平洋戦争の終わりという「近代化の破産していく過程」を、2つの黒煙で縁取るように描いたのだ。その点で『風立ちぬ』は反転した『坂の上の雲』ということができる。
『風立ちぬ』の2つの“決まっている行く末”
しかも『風立ちぬ』は、その「近代化の破産」を無言のうちに前提に物語を進めている。それはいずれ起こることとして“決まっていること”として描かれている。
この決定論的な語りは、幼い二郎が夢の中で、カプローニの飛行機が街を焼く様子を「これから起こること」として幻視してしまうシーンから一貫している。軽井沢で会った外国人カストルプが「(軽井沢は)忘れるに、いいところです。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する、ドイツも破裂する」と語るシーンも、あたかも“予言”のようだ。
またそこと軌を一にするように、二郎が愛した奈穂子が結核で死ぬのもまた「避けられない出来事」として描かれる。奈穂子はプロポーズを受ける段階から既に自分の命が短いことを自覚している。「人生には選択肢などなく(あっても大差なく)、人生はそこで精一杯生きることしかできない」という、決定論を前提としたある種の諦観が本作の根底にある。
どうして『風立ちぬ』はこれほどまでに決定論的なのか。それはこの映画がやはり「近代化」が主題だからなのである。
二郎というキャラクターに寄り添っているように見えながら、本作ははるかに遠いところからキャラクターたちが生きる様を見ている。そこから見ると、二郎もカプローニも同じような存在であり、彼らが人生をいかに選択しようが、国家が近代化する過程で帝国主義が台頭する以上、戦争は避けられない。個人が賛成しようが反対しようが、そのような歴史の必然たる枠組みは変わらない。
『風立ちぬ』と『もののけ姫』…2つのジブリ作品の“描かれなかったこと”
『風立ちぬ』公開時に、二郎が「戦闘機を作ることを通じて戦争協力していることを、どう考えているかが描かれていない」という指摘があった。その指摘は確かにその通りだが、それは本作が「日本の戦争」を描こうとしていないからだ。
「近代化(とその破産)」が大枠である以上、個人個人がどう思おうと「近代化の過程で戦争は起きる」という前提は変わらず、だからこそその大きな視点を際立てるために、人間の内面の葛藤や良心の呵責には関心を払わないのである。そしてそのような状況をニヒリズムでもなく、露悪趣味でもなく淡々と描き出したのが『風立ちぬ』なのである。
この「近代化」をどう扱うかという問題意識は、『もののけ姫』にまで遡ることができる。
『もののけ姫』にエボシ御前というキャラクターがいる。彼女は製鉄を行うタタラ場のリーダーで、製鉄のために山を切り開くため、山の神々と敵対関係にある。そして映画のクライマックスで彼女はついに神殺しを行う。
宮崎駿監督は彼女について「近代人である」「だから魂の救済を求めていない」といった内容の説明をしている(『「もののけ姫」はこうして生まれた。』浦谷年良、徳間書店)。つまり『もののけ姫』とは、近代人が神殺しを行い、そこから“近代化”が始まったのだ、という物語なのである。そして“近代化”によって生まれた様々な矛盾や問題を抱えつつ主人公のアシタカは生きざるを得ない。
この矛盾や問題を象徴するのが、森とタタラ場の関係だ。タタラ場の人々は生きていくために森を伐採せざるを得ない。だからタタラ場と森は根本的に相容れることはない。タタラ場は工業化により女性や障害を持った人間にも生きる場所があるという理想的な社会ではある。しかしそれは自然環境を蕩尽することで支えられているのである。
ヒロインであるサンの「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことは出来ない」という台詞とそれに対するアシタカの「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」という答えは、その矛盾や問題を引き受けて、なお生きようという意思の表明だ。そしてそれは、その矛盾によって傷ついたとしても「共に生きることなど無意味だ」というニヒリズムに陥ることはないという気持ちが込められている。
ここで映画が終ってサンとアシタカのその後の日常が描かれないのは、アシタカの抱えたこの矛盾はそのまま現代人の問題だからである。
なぜ『風立ちぬ』は“美しい映画” なのか
『風立ちぬ』において飛行機が「美しくも呪われた夢」と矛盾を孕んで表現されるのも、『もののけ姫』が象徴的に描いた「近代化」とその問題の果てにあるものだからだ。工業化を背景にした近代国家の成立、そしてその結果としての戦争。人はこの大きな枠組みの外に出ることはできない。
そして『風立ちぬ』は、その枠組の中で右往左往する人間を描いた作品なので、視点が非常に大きいところにある。視点があまりに大きいから、二郎の葛藤や良心の呵責を描いても、そこには大して意味がない、ということになるのだ。逆にいうと二郎の心理に寄れば寄るほど「日本の戦争」を描いた作品になり、「近代化(とその破産)」という大きな枠組みは見えなくなってしまう。
その点で『風立ちぬ』は、二郎を「当時の時代の中で生きた人として描いた」というより、「敗戦という結果が出た現在から導き出される大きな視点の下に描いた」といったほうがふさわしい。ただし愛情を持って。そしてそのマクロとミクロのバランスが絶妙なので『風立ちぬ』はとても美しい映画として完成したのである。
“美しさ”の裏側にある“危うさ”
けれども――である。
私たちは日々の生活の中で、「近代化(とその破産)」を前提とした決定論を生きていくわけにはいかない。現実の未来は不確定で、それをよりよきものにするには考えたり、時になにかに抗う必要もでてくる。
映画監督の伊丹万作は『戦争責任者の問題』の中でアジア・太平洋戦争にまつわる責任について次のように記した。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
映画としては美しくとも、映画の中で切り取られた二郎の生き方を「時代の中で精一杯生きた」とだけシンプルにまとめてしまうのはとても危うい。「精一杯生きたからしょうがない」と「時代に流された」の間にはどのような境界線があるのか。
『風立ちぬ』では「近代化」という枠組みと、二郎の“芸術家”としての「業」を強調したことで、その境界線が見えなくなっている。現実の「未来」は、「近代化」の枠の中にあったとしても、さまざまに変えられる部分を秘めた可塑的なものだ。
作中で二郎はポール・ヴァレリーの詩を口にする。
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre 風が立つ。生きようと試みなければならない」
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。
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