【日記】noteがいいと言ったから今日から毎日おねショタ記念日 #海野波香のさざめき 【59】
昨日の日記で少しおねショタの話をしたら、投稿時に内容を分析して出てくる推奨タグに「ショタ」が出てきた。
これはつまり、noteが私にショタのタグで何かを書くことを推奨したということだ。だってそうではないか、推奨タグにショタが出てくるのだから。「これはショタの話をしてるよね、見つけやすくしておくよ」という優しさだ。
だから、ショタの話をしようと思う。
私はおねショタのおねになりたいと常々考えている。正確にはお姉さんと少年の関係になりたい。間違えないでほしいのは、ショタの側になりたいのではないということ。ショタを甘やかしたり諭したりして彼の永遠の傷になりたいのだ。
ショタには色々な良さがある。その全てを語ることはできないし、しようとも思わない。私が思う良さを良さと思わない人もいるだろうし、反対に私が良いと思わないところに良さを見出す人もいるだろう。
では範囲を絞って私個人がどうショタを愛しているかと問われると、これもまた難しい。小さな手や半ズボンの裾から覗く形の膝小僧、性の未分を思わせる未発達のあどけなさ、感情の豊かな瞳が大人に対して示す色とりどりの感情……。
おねショタに限定したうえでショタの良さを語るのなら、それは変化にあると私は思っている。
少年を少年たらしめている要素に、性欲的な無垢さがあると思う。肉欲を伴わない、純で実態のない、いっそ妄想のような異性への憧れ。精通もしていない未発達な肉体に宿る未発達な精神が最大限に膨らませた、穢れなき性欲。
お姉さんはそれを無遠慮に踏み荒らす。
異性とはそんな清らかで不可侵な存在ではない。同じ人間なのだ。色香とともにそう教える一方で、年長者としてまるで中世のワイズマンのように神秘的な導きを授ける。少年は現実と幻想の入り交じる手で心を直に撫でられる。
その愛は注ぐ側にとっても注がれる側にとっても倒錯的だ。たとえ全年齢作品であろうと、清らかな触れあいでは終わらせられないインモラルさがある。
たとえ肉体的な触れあいがなくとも、視線の交わりとさまよい、呼吸の重なりと乱れ、そういった空間的な重なりが共に過ごした時間を単なる経験以上の何かへと高める。
少年にとってお姉さんとは触れることを許されたタブーだ。
体温を肌に感じる。呼吸が同じ大気を揺らす。鼓動が布越しに伝わる。髪の乱れの向こうにいつもと色の違う景色が見える気すらする。
その経験は少年にとって一生の幸いになり、また、一生の傷になる。どんな大人になろうとも、彼の心の片隅にはずっとお姉さんの幻影がちらついているのだ。それは故郷を想うのと同じように彼の原風景になる。
おねショタを構成するようなショタは、しばしば、幼少期に孤独を抱えている。
そうでなければ、そもそも人格形成に影響を受けるレベルでお姉さんとふたりだけの世界を構築するはずがないのだ。親と子という家族制度を正しい形とするのなら、おねショタは家族の間違った形である。
それは両親が多忙なためかもしれないし、死別したのかもしれない。もっと悲しい、社会問題になりそうな理由で親の愛を受け取れなかったのかもしれない。ともかく、少年は保護者からの愛が何かしらの形で欠落している。
お姉さんとの触れあいが常にその代替となるわけではない。お姉さんは親ではないし、親になろうとする試みは失敗に終わるだろう。しかし、親の愛とは違う温もりが少年の柔らかな人格を陶冶していく。
おねショタは刹那的だ。お姉さんはいつまでもお姉さんではいられないし、少年はいつか大人になる。しかし、ふたりが互いの心をまさぐりあってつけた傷は永遠だ。その形は永遠に残る。
つまり、おねショタとは刹那的で時に倒錯的な愛の話でありながら、同時に永遠に続く人格形成の話でもある。
そんなおねショタを私は書きたい。
刹那的にはどこかインモラルでありながらも、対話と経験の共有を通してふたりは互いの人生に影響しあい、その時間は少年の人格を陶冶し、やがて大人になった彼にもそのころの面影と傷が残っている……そんなおねショタ。
そして、私にはまだ出せていない答えがある。かつておねショタのおねだった女性は少年が大人になったころ何者になっているのか。
ラブコメらしく少年の妻になったっていい。もっとシリアスに死別していたっていい。世知辛くも落伍者になり、苦しみを抱えて生きていてもいい。そのすべてによさがある。
どれもいいと思いながらも答えを出せずにいるのは、私がショタ、少年の魅力に呑まれているからなのだろうか。
おねショタだからこそ書ける女性の魅力というものもある。親ではない、保護者というほど厳密に守っているわけではない、教師というほど導く目的を持っているわけでもない、そんな曖昧な地位を獲得した人物の特殊な魅力。
おそらく私がおねショタのおねについて定まった語り方をすることができないのは、ショタの属性に応じて様々なおねが想定されるからだ。おねショタのおねには多様性がある。
誰でもよいというわけではない。
美しい必要はないし、聡明である必要もない。保護者として正しい必要などまったくないし、教え導く者の素養がある必要など皆無だ。むしろ等身大の女性が少年を前に無意識な背伸びをしている方が美しいとすら思う。
ただ、それはそれとして、異常者や落伍者とでも呼ぶべき女性が少年に社会の正道から外れた様々な現実や幻想を見せるのも、またおねショタの形だ。
おねショタが多様であることは望ましい。可能性の数だけおねショタ作品が生まれうる。
仕事が落ち着き次第、仕上げたいと思っている作品がある。歴史改変ファンタジーで、宗教や呪術、土着信仰、アンティークを扱い、哲学なども盛り込んだおねショタ小説だ。これを最後の公募作品とし、落選したら同人にしようと思う。
形にしたいおねショタが山ほどある。いや、おねショタだけではないのだ。書きたいネタばかり増えていくが、小説を書く時間と体力は年々減っている。
仕事に慣れて今勉強している資格を取り終わったら通退勤の電車で小説を書く余裕が出てくる。それまでは、「いつか小説を書くのだ」という妄想に浸る幸せを享受することにしよう。これはこれでもどかしいが幸せなのだ。
今日はおねショタのことをじっくり考えることができて幸せだった。早く作品にしたいものだ。
今日のはっぴー
偉い人たちにすごく褒められた、期待されている
仕事で役に立てた、私は優秀らしい
上司にランチご馳走になった、ありがたいね
おねショタは私の幸せ