群青は愛の色で、人生の色、らしい。
伝える難しさと、聞き続けてくれる人の優しさ
いつだって考えているけど、世の中の常として深く考えさせるきっかけは重なってくるものですね。
愛についてものすごく難しく考えてしまうからこそ、日々の生活の中で愛に費やす時間は多いんじゃないかな、と思っている。
私にとって一番難しくて、一番大切なことは、
大切な人に、私がその人のことを大切に想っていることを伝えられること。
言葉を愛していて、言葉にならないことを愛していて、言葉にしないと伝わらないのに言葉にした途端に7割の想いは霞んでしまうことを知っていて、それでも素敵な言葉が降り積もって宝物となることを知っているからこそ。
途方もなく、難しいことだと思う。
あなたのことを、本当に大切に想っているんだよ、と相手が”理解ってくれる”ように、どうしたらいいのか考えている。
だから、一般的に大切な人に対する行為をみんな大事にして、取り組むというのはある意味理解できる。
だって一般的、ということはたくさんの人がある一定の事実として受け止めている愛情表現、ということだから「あなたのことを大切に想っているんですよ」というのがアピールしやすいし、相手も理解しやすい形だと思うから。
愛を伝えるってとても難しいことだから、先人たちの知恵を借りることは納得のいくこと。
だけど、先人たちの知恵が自分にはちょっと合わないな〜って感じた時は、ちょっと工夫が必要になる。愛はきっとほとんどの人がそれぞれの形で一回は感じる概念だから、知恵は、きっと、ある。
ただ、ちょっとだけ、そんな所で?という場所に目をこらす必要は生じるかも。
…というわけで、
愛だな〜って私が思う瞬間たち(今思いつく限り)
貸した本を読んで、感想をくれる時
代わりの本を貸してくれる時
私が読んだ本の感想を一生懸命言葉にしようとしている、あの手繰り寄せている瞬間の拙い言葉を聞いてくれる時
8作ぐらいあるシリーズ映画を全部見てくれた時
「2回目なんだけど」って言いながら私が初めての映画をもう一回見てくれる時。しかも劇場で。
おすすめ、読んだよ/観たよって言ってもらえる時
それを持っている君が嬉しそうだったから、という理由でプレゼントをくれる時
このプレゼント、選別ぴったり。解像度高いねって言われる時
センス良いねって言ってもらえる時
あなたがいいと思った所ならどこでもいいよ、と言って本当にどこでも来てくれる時
いいものに結果お金を払うのは別にいいんだよ、って言って予算オーバーになっても笑顔でいてくれる時
泣いた時、瞳孔が開いて、オロオロしながらハンカチを差し入れてくれた時
落ち込んでいる私の友達にわざわざデパ地下の高いお菓子を買ってくれた時
頑張りたい私のことを見守ってくれる時、たち
頑張ったね〜!っていつでも褒めてくれる時
お風呂最初にどうぞ、って言ってくれる時
私の食べたいもの少しずつ頼ませてくれて、食べきれない残りを全部食べてくれる時
今日の私は絶対!可愛い!と思って向かった先で「可愛いね〜」と褒めてくれる時
実はPayPayなんかのプロフィール写真を一緒の旅行に行った時にお互いをとった写真にしている時
とりあえず、なんも予定ないからお昼だけ会わない?って言ってくる時
晩御飯作りすぎたからあげる、って言ってくれる時
「てか、食べた?」って聞いてくれる時
本当はいっぱいやりたいことがあるのに、私にペースを合わせてくれる時
恐る恐る差し出される手の存在
「気をつけて帰るんだよ」
「家着くまで起きてるよ」
「君が無事ならいいんだよ」
「お金あげるからタクシーで帰りなさい」
「髪、伸びたなって思っていた」
「君のやりたいようにやれば良いんだ」
「この前ここ行って美味しかったから一緒に行こう」
「ここ絶対好きだな、と思って連れて来たかったんだ〜」
「君の見ている世界は綺麗だね」
「大事なことは何回でもいうよ」
「幸せだなって思っていた」
「今年もお世話になったし、来年もいっぱいよろしくね」
小説から考える、愛について
群青をピカソの青い時代になぞらえて、「the color of life」と書く原田マハさんの感性が綺麗だと思った。私にとって、世界の色は青がメインと思っているし、人の持つ感情も根底では青に帰結すると思っている。愛も、青色。
それを、人生の色だと言える感性が、好き。
大切な人がよく眠れるようにと願うことも愛らしい。
確かに、考えてみると幸せは本人が感じるものだし、夢はその人が見て、掴んで、描いて、魅せるものだし、努力がその人にとって一番良い方向に報われると良いけど、頑張るのは当本人だし。
だけど、毎日頑張って生きた後に果たして夜、よく、眠れるのかは人智を超えた領域に入っている。
だから、あなたが毎日頑張れるように、良いことがいっぱいあるように、夜、よく眠れますように。
暖かくしてね。
人は、自分の行動をどうしても自分には説明し続けないといけないから、永い言い訳を、生涯をかけて、重ねていくらしい。
真実なんていくつも存在するし、自分で言い訳を重ねているならそんなことは誰も知らないということになる。
それでも、重ねていく中でより誠実な言い訳を目指し続けることによって、傍にいてくれる人たちに誠実であることができる、らしい。
傍にいてくれるからこそ、傷付ける覚悟と、傷付く覚悟を両立させていくことで、誠実に、相手と会話を重ねることができるのかもしれない。
さよならだけが人生、という考え方もあるし、さよならは別れの瞬間ではなく、別れざるを得なかった出逢いを乗り越えた時のことを指す、という考え方もあるらしい。
留まりたいと願った場所に、なるべく長くいられますように。
次に向かうときは、想い出を抱えたまま、そしてその想い出をかけがえのないものだと認識できるあなたで、いけますように。
愛について、今日も考えている
これは一生続く。多分。
だって、大切な人を大切にする術なんて誰も分からないし、だからみんなもがいているし、タイミングとか距離感とか、後今その人がどういう状態にあるのか、自分がどういう状態にあるのか、とか瞬間的な要素があまりにも複雑に絡むことだから、ずーっと、永くかけて、その時その時で最適な、一番響く言葉を、行動を選び取れるようには、ずっと考えていないといけないと心の底から思うから。
考える、ということがどれ程苦しく、辛いことでも、人間というのは考えることを定められた生物なのだから。
難儀なものですね。
笑
あなたが幸せでありますように。
(いつもよりはちょっっとだけ分かりやすい文章だったんじゃないでしょうか!希望!)
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