日本古代史二層か三層かの問題
基本、私は素人であって、その分野の研究家でないため、既存の研究成果に負う羽目になりますが、研究家の間でも様々な見解がありますので、自分なりに妥当だと思われることを以下、僭越ながら述べさせてもらいたいと思います。
その際、研究家のイラストが、大雑把ではありますが、一応参考となりますので、それを指標にして論じてみます。
①14万年に上上部のハプロタイプBTからDEとCTに分離し、約6万年前にDEから、DとEが分離しました。
この時期で重要点はBTからCTグループと分かれた際、YAP遺伝子がDとEだけに賦与されたことです。
もう一つはDはアフリカを出たグループがD¹だということ。
②D¹は主にユーラシア大陸の要するにアジア方面に移動しました。
その際、D¹は下部のグループに分岐して行きました。
そのグループが広範囲に分布しました。
③おそらく4万年前頃、確定はできませんが、3方面から列島(日本)に漂着したと思われます。
これも推測の域を出ませんが、他のハプロタイプとは別に、より前人類のネアンデルタール人の遺伝子を多く残していると思います。
④多くの人の表現が不十分だと思います点は、列島に漂着してから縄文人と呼んでおられますが、仮に縄文文化は、概ね、定住化(狩猟採集も含む)と土器の制作を特徴とするわけですので、敢えてよく言われています「日本祖人」と呼んだらいいのではないかと。
⑤ところで1万5千年前の縄文文化(草創期は無紋)の発生の起源についての憶測は、バイカル湖付近のマルタ・ビュレット文化(2万4千年から、と推測されている)、ヤナ遺跡文化などの担い手であった古代シベリア人系の人びとが北海道や北東北に齎した結果だと思われます。いわゆる土地のD¹の融合と考えられます。それはすなわち、古代シベリア人たちが北海道、北東北に流入したか、北海道、北東北の人たちが古代シベリア人たちの文化を進んで受け入れたかは予断を許しませんが。おそらく、どっちもあったろうと推測します。
この時、大事なポイントはこの文化の衝撃は凄くて、関東を中心とした東日本全域に浸透するのが急速であったということです。
⑥世界の前史文化の研究はここ十年急激に進化して、とくにドイツのマックス・プランク研究所の発表は目を見張ります。
この研究は、トランスユーラシア語族(Amur)に関するもので、日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語の系統の共通の由来を黍(キビ)科系の文化と規定しています。要するに日本文化における「五穀の主要部分」です。
⑦それを約9千年前と想定しています。
そしてその文化の列島流入を、概ね、6千5百年前以降と推測しています。
それに対して図にもありますように稲(米)の流入を2千9百年前と推測しています。
ただし、この図では多少、稲文化の伝播が、Yellow Riverとなっている点は不満ですが、概ね妥当だと思われるのは、揚子江と考えればもっとよいと思います。
その担い手は、Sino-Tibetanとなっている点もちょっと問題です。概ね「漢人」たる種族は一種の概念であって、揚子江流入の所為「良渚文化」の担い手は「越人」としたいところでです。その越人は概ねTibetanと考えてよろしいかと。
さて、いわゆる、3層論で取り沙汰されています所為「古墳人」の起源について、考えてみますと、概ね、中国に春秋戦国時代の「呉越」闘争以来と考えています。
しかし、それでは、「古墳時代」とだいぶズレているとのご批判があるでしょう。
私の歴史区分では、「弥生」と「古墳」、両文化には連続性が強く、断続性は弱い、という考えです。
越が呉を滅ぼし、楚が越を滅ぼした結果、以来、絶え間なく、半島からも、流民が列島に押し寄せたと見るべきであって、従来の日本的縄文的文化性が彼ら流民を受け入れ、優しく同化して行った、と考えています。その際従来文化に対して多少の差異は生じたとしても、です。
補注
①まず縄文文化には北部と南部の相違があるとの説もあります。
②D¹が分離したとき、ネアンデルタール系の交雑が先か後かの論議で、ホモサピエンスは他系の人類の匂いとの違いで選り分けていたという。その匂いを異臭として克服してD¹が発生したのか?冒険性がYAP遺伝子の特徴か?心配性のせいか?行為が先か遺伝子の変異が先か?
③同じように、縄文文化の生成において器が先か、定住が先かの問題と類している。
いわゆるメタ認知の深化の度合いかも知れません。