
高崎の切干塚 2025/1/4
新型ウイルス流行前の5年以上前のことになりますが、高崎の環状線を車で流していると『首塚』という案内板が目に入り気になっていたため、ある日とうとう訪れてみることにしました。
「平将門の首が群馬でワンバウンドしたとかかな」
などと想像を膨らませつつ、細く舗装された家の塀に挟まれた道を入って行きました。
するとそこには思いがけず、恐るべき下小鳥村全滅の言い伝えが記されていました。
史跡を覗いてみよう、という軽い気持ちで訪れたら軽く後悔して、ぞっとしながら足早に帰路に着いたのでした。
あれから数年。今残さなければ時の流れに忘れられてしまうような、群馬県内の言い伝えや伝説、神話などを改めて自分の足で確認し、まとめてみようと思い立って、再び首塚を訪れることにしました。
以前と様相がちがって、 看板もみつけられなかったのですが、首塚の周りはやけにこざっばりしていて道路からもよく見えるようになっていました。

塚に上がる短い石段横に、顛末記という石板がありました。

『昭和五十七年のあかぎ国体開催に伴い、明るく住み良い高崎をつくる協議会が結成され、下小鳥町の文化財を全国に広く紹介しようと、浄財を集めて首塚の改修工事が行われた。
昭和五十七年 春彼岸』
と、
『三国街道 道しるべ 改修奉賛会』
により刻まれています。
階段を上がった場所に建つ大きな石碑には、漢文調で『枉寃旌表之碑(おうえんしょうひょうのひ)』が刻まれており、振り向くとガラス張りの高札に現代文の説明がありました。

概要は、
『江戸時代初期、高崎藩主松平丹波守康長のもと、罪なき下小鳥村の村人たちが役人武士たちに殺戮されたという言い伝えを元に建立された慰霊碑』とのことです。
この高崎城主が課した重税に反目した下小鳥村の農民が、役人二名を殺してしまう。
これに激怒した殿様は、元和三年(1617年)の正月四日。嫁に出た者も帰省する頃合いを見計らい、報復のため老若男女問わず、村人を全員切り殺させた。
という、なんとも惨く血生臭い言い伝えでした。
役人が村人の遺体を深い穴に埋めたことから、切干塚(きりぼしづか)とも言われたということです。
旧暦との違いがあるでしょうが、私が再訪した日と、かの事件がたまたま同じ日付で、なんだか呼ばれたような気もしてきます。私の実家も旧三国街道沿いの旧宿場町で、先祖の宿には殿様の家来が泊まったなどと聞かされているため、さらに身近なお話に感じてしまいました。
またサイコな殿様が正月まで待って襲撃するあたりが、イヤミスならぬイヤヒスというところでしょうか。
さらに高札によれば、
石碑は真塩紋弥という秣場騒動(まぐさばそうどう)の指導者が、当時の村人の心情などを推量描写した内容を撰文し、元は明治三十四年に建立されたそうです。
明治で高崎のことなので、「榛名山中野秣場騒動」のことでしょうか。史跡を深掘りすればするほど、教科書に載らない近代史や地域の歴史が見えてきます。
その大きな石碑の真裏の日影に、ちょこんと小さな自然石「三界万霊塔」があります。
こちらが当時からの供養塔であったのではないか、との記載がありました。
悲しい言い伝えではありますが、この事件を裏付ける歴史的資料は今現在見つかっていないとのことです。
しかし後の世代の人々が数度に亘り、この悲劇を伝え遺そうと働きかけたからこそ、この首塚がこうして在ることは紛れもない事実なのです。
※鎮魂のため建立された石碑の正面からの撮影は差し控えました。