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オカルテット2 屈辱

主要登場人物

鵜ノ目冴歌


保志星冶



  ニ 屈辱


 会話を交わしながら、入り組んだ細路地を何度曲がっただろう。
「この薄緑の壁のアパートが僕の家です」
 三〇三のプレートが真新しい駐輪場に自転車を止めた星冶が、先導して階段を昇っていく。階段も手すりも錆一つない。三〇一号室と三〇二号室の『空き』の張り紙を横目に、角部屋へ。
「僕の部屋です」ドアを大きく開けて迎え入れる星冶。
 鍵はかけられたが、そのまま押し倒される……ようなことはなく、電気が灯された。
「……おじゃまします」
 間取りは七畳ほどの縦長のワンルーム。小型パソコンが置いてあるワークデスクとベッドを壁に寄せたレイアウトで、中央には一人掛けのラウンジチェア。その下にはラグが敷かれていて、休息スペースとして区切られている。部屋全体はウッド調で統一されており、雑然とした印象はない。
 冴歌の頭に自分の居室が思い浮かべられる。八畳の三分の一は占めるであろう会議用デスクとそこに接する壁面に打ち付けたアクリル板には、所狭しと付箋が貼られているような部屋だ。
「私の部屋とは大違いね」思わず声が漏れる。
「彼女以外の人を招くのは初めてで、なんか緊張するなぁ。……って、変な意味じゃないですからね!?」と、星冶は星冶で別のことを考えていたらしい。
「彼女さんが来たときも、例の走り回る音は聞こえるんですか?」彼の言葉をスルーして質問する。脳はもう調査モードだ。
「あー、えっと……。はい、聞こえてます。でも、彼女には聞こえないみたいです」
「昼夜問わずとのことですが、だいたいの時間とかは?」
「今が正午過ぎで……。昼間はそうですね、今くらいの時間から二時くらいかな。夜は九時から十時くらい。あと、明け方の四時とか」
「ふーん、じゃあこれから聞こえるかもしれないのね」
 冴歌のつぶやきを拾った彼はそういうことになりますねと返し、キッチンにしなだれかかっている。
「体、つらいですか?」
「部屋に入った瞬間、いつもすごい倦怠感がやってくるんです」
「座るなり横になるなりしたら、少しは楽になるかもしれませんよ?」
「はぁ……。椅子やベッドまで行くのも……だるい、です」
 交際しているという彼女ならともかく、まさか自分が手を引いていくわけにもいかないし、どうしたものかと思案を巡らせていたときだ。
 ぱたぱた、ぱたぱた。二回聞こえた。
「あ! 足音! 今、足音がしました。聞こえましたか!?」弱っているとは思えない声量で星冶が反応した。
 と同時に冴歌の肩もビクリと跳ねる。だがそれは星冶の声に対してではなかった。
「嘘よ……」
 信じられない。信じたくない。
 眉根を寄せて一点をキッと睨みつける冴歌。
「鵜ノ目さん?」
 走り回るような音とは聞いていたが、それを再現するかのように今度は軽快な足音が数秒間。
「わた……き……」「え?」
「私にも聞こえたわ」明瞭になった発音は、何かを噛み殺すように。
「怒り、いや悔しさ……」
「あのぅ……鵜ノ目さん?」険しい顔の冴歌におずおずと問いかける星冶。
「聞こえてしまった、と言うのが正しいのかしら」
「えっと、じゃあこれって……」ここにきて、さらに星冶の顔から血の気が引いていく。
「私も聞いちゃった以上、残念ながら」
 星冶は落胆の表情を浮かべ、冴歌はぎりりと唇を噛む。
 作り話だと思っていた。ネットにそういう投稿をする人間はみな、他人から注目されたくてやっているのだと思っていた。
 ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱた。今度は三回。どこからともなく聞こえてきて部屋全体に響く。それはまるであざ笑うかのように。
 普段感情をあらわにしない冴歌が頭をかきむしる。こげ茶のつややかなセミロングが乱れるのもお構いなしに。
「鵜ノ目さん……」となりの青年はとうとう肩で息をしながらも、心配そうにこちらを見ている。
「……見ないで」「え?」「見ないで!」
 大声を上げた途端、青年が怖じ気づいたのが解った。
「ご、ごめんなさい」青年はそう口にして、視線を床に落とした。
 その間にも足音は聞こえる。これはなんなのだろう。
 ⸺みんなに見られている。嫌悪。憎悪。嫉妬。好奇心。好ましいものは一つもない。
「ちがう、保志さんはそんな人じゃない……」
 ⸺みんなに見られている。嫌悪。憎悪。嫉妬。好奇心。好ましいものは一つもない。
「ちがう、ちがう!」
 どうしてこんなときに昔のことを、あのトラウマを思い出すのだろう。
「あぁ……。敗北感、屈辱感からか。保志さん、ごめんなさい。私、今日負けたわ。作り話でもなんでもなかった。こういう現象って本当にあるのね」
 生気をなくした冴歌の言葉に、青年は押し黙ってただとなりにいる。
 軽やかな足音がまた耳に届く。となりでぐったりしている星冶を気遣うゆとりなどない。冴歌の全神経が『その音』に集中する。
「聞こえる。うん、聞こえるわ……。ねぇ、おじいちゃん。私はどうしたらいいの?」
 問いかけたのは、心の中にいる祖父だった。

「じぃじ。クマさんがとーみんするのはなんで?」
「おぉ、冬眠だなんてもうそんな難しい言葉を覚えたのかい? 冴歌は本当に賢いなぁ!」
 そう言って、節くれ立った温かな手がやさしく頭をなてでくれた。
「さて。クマさんが冬眠するのはなんでだと思う?」
「んー、寒くてお外に出たくないからかな?」
「そこの絵本を持ってきてごらん」
 二人でページをめくり答えを探す、その時間が好きだった。
「じぃじ、見つけたよ! 春に元気いっぱいになるために、ねんねするからなんだね」
 祖父は、質問に対して最初から答えを与える人ではなかった。「なんで?」と聞くと「なんでだと思う?」が第一声だった。
「冴歌。おまえがたーくさん持っている『なんで?』を大事にするんだぞ。それから、おまえがいちばん『楽しいな』『面白いな』と感じることを続けなさい。それは冴歌が今よりももっとお姉さんになったとき、きっと役に立つから」
 人一倍強い探究心は、こうした祖父との触れ合いのおかげでさらに鍛え上げられた。

 今も断続的に音は聞こえてくる。先ほど印籠を渡すように「自分にも聞こえた以上、残念ながら」と言ってしまったが、内心もどかしくてたまらない。こんなにあっさりひきさがってしまっていいのだろうか。
「保志さん。足音と体調不良以外に、何か気になることはないですか? 実は最近、仁大寺の各地で保志さんのような現象が多発しているみたいなんです。どんな些細なことでも構いません!」
 冴歌の目に光が宿る。力強いその声に、星冶が頭をもたげた。
「そういえば、つい最近聞いたんですけど、もう少し中心部に行ったところにある馬頭観音の一体が破損しているのを見つけたって、町内会の人が言ってました。何か関係がありますかね?」
 冴歌はすかさずメモを取る。
「馬頭観音って、亡くなった馬を弔うためのものですよね? それが破損したことで、町全体に今回みたいな異変が起きているのかも」
 口にしていちばん驚いているのは自分自身だ。オカルトを信じない自分が、まさかこんなことを口走るなんて。半分は自分の矜持を守るため。このまま原因不明で終わらせたくない。もう半分は星冶のため。喘ぐほどに苦しむ彼を、せめて気持ちの面で少しでも軽くしてやりたかった。
「いったん、この話は持ち帰らせてもらってもいいですか? 依頼を受けた以上、私もこのままじゃ終われないので」
「はい、お願いします。鵜ノ目さんは、なんだか刑事さんや探偵さんみたいですね」
「私は……。私は、オカルトを信じないオカルトマニアよ」

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