オカルテット1 邂逅
主要登場人物
一 邂逅
約束の一時間前に郷土資料館に着いて、中をぐるりと回り終えたところで、背後から若い男の声がした。
「あの、もしかして鷹ノ目さんですか?」「あ……」
振り返ると、顔面蒼白な青年が立っていた。ブラウンのメガネに、地毛なのか天然なのかは判らないが癖の強いパーマ。やや明るめの茶髪だ。下ろしたてなのか白いパーカーがまぶしい。下は黒みの強いジーンズ、底の厚い黒のスニーカー。靴紐の深緑が差し色になっている。
「十時よりも早く着いちゃって」
この青年こそが今回相談を持ちかけてきた本人だと確信した鷹ノ目⸺もとい冴歌(さやか)は、紺の肩掛けバッグから慌ててメモとペンを取り出して書きつける。『あなたがshihoさん?』。目線は泳ぎながらも相手に渡す。
「はい。本名は保志星冶(せいや)って言います。今、大学二年生です」
しゃべりながら青年もグレーのカジュアルなリュックからペンを取り出し、メモの端にフルネームを左手で記して冴歌に返す。
本人が言っていたとおりの年相応の青年だ。「蓋を開けてみたら実はオッサンでした、とかじゃなくてよかった」と相手に聞こえないよう安堵の声を漏らす。
メモを受け取った冴歌はまたペンを走らせた。『私は鵜ノ目冴歌。今日で四十四のオバサン』。自分も名前にルビを付す。
「今日がお誕生日なんですね。おめでとうございます! とてもお若く見えますね」
お世辞だと解っていても普通の中年女性なら喜ぶところなのだろうが、コンプレックスを見事に突かれた冴歌は視線を落とし、さまよわせる。「あ、余計なこと言っちゃいました……?」
他意はないのは解っているので、慌てて頭を振る。そんな冴歌の今日の服装は、オーバーサイズの白のブラウスに、これまたオーバーサイズのキャメルのセーター。指の半分ほどが隠れた状態だ。下はプリーツの入った紺のロングスカートに白が基調のスニーカー。
「萌え袖なんかしてるから、実際よりガキに見えるんじゃねーか?」と、いつか大和に言われたのを思い出す。それでもこのスタイルが落ち着くのだ。
「ハ、ハンドルネームが鷹ノ目なのは鵜の目鷹の目からきてるんですか?」
気まずさからか、相手もあたふたしながら話題を変えてくる。
冴歌は一瞬戸惑った。本当は別の所以なのだが、説明するととても長くなるので、とりあえずうなずいておくことにする。それからまた新たなメモを渡す。
「おっしゃるとおり、僕のハンドルネームは名字をひっくり返して付けました」
そう答える青年に、さらに走り書きを渡す。『筆談でごめんなさい。初めて会う人とは緊張のあまり、慣れるまで声が出せないんです。あと、これは誰に対してもそうなんですけど、人の目を見るのが怖くてアイコンタクトできないんです』。
オマエには表情筋が存在するかも怪しいぜ⸺またもや大和の言葉がよぎる。そこで、意識して眉根を下げて申し訳なさそうな表情というものを作ってみる。
すると、星冶は「そんな顔しないでください」と慰めるように声を発し、あとを続けた。
「僕も、こうして実際お会いするまではドキドキしてましたから。でも、いい人そうでよかった」
安堵の微笑みを浮かべたつもりのようだが、顔色が悪いせいか無理して笑っているように見える。
冴歌はきれいに割いたA5のコピー用紙のお手製メモで『顔色が悪いですよ。そこの椅子で休んだほうがいいのでは?』と体調を案じる。
「ああ、大丈夫です。ここって鷹ノ目さ――鵜ノ目さんが住んでる市と僕の二葉市のちょうど境目に位置しているじゃないですか。だから、ちょっと体がだるくて」
そういえば、自分の居住地域から完全に外れれば不思議となんともなくなるのだと言っていたか。
星冶とは、オカルト系サイト『超常現象さあくる』で知り合った。
二葉市の仁大寺という地区の各地では最近奇妙な現象が多発しているらしい。ちょうど一週間前に大和からそう聞かされたときだ、目の前の彼からまさにその現象に関する相談をもらったのだ。
いわく、仁大寺のアパートに越してきて間もなく、それまでなんともなかったのにひどい倦怠感を襲われるようになった。何より、昼夜を問わず子供が走り回るような音が聞こえてくるというのだ。自分は各フロア三居室のアパートで一人暮らし。最上階の角部屋で、同じフロアの残り二部屋は空き部屋。
そうした状況説明がDMで冴歌のもとに届き、「これは心霊現象なんかじゃない」と直接会って言ってもらいたいという結びだった。
ただ、国内最大規模の『超常現象さあくる』での冴歌の評判は散々なものだった。心霊現象だ、怪奇現象だと盛り上がる投稿に顔を出しては、水を差す投稿ばかりしているからだ。やれカメラワークのせいだの、やれ背後のガラスに映る物体と光の加減で見間違えているだけだの、動画の投稿には「自作自演」と烙印を押す。オカルトというものを信じない彼女は、そうしてユーザーたちの投稿の一切を容赦なく切り捨てる。その結果、罵詈雑言のメッセージが毎日わんさか届いているという始末だ。
それらを意に介さず、真っ向否定の投稿を続ける冴歌に毎回グッドマークを付けている唯一の人物がいた。それこそがshiho――星冶であった。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「本当に休まなくて平気ですか?」
体調が悪いのは手に取るように解るが、それと同じくらい伝わってくる彼の柔和な雰囲気によって、冴歌の口からおのずと言葉が出てくる。
「お、声が聞けた! たったこの短時間で僕に慣れてくれたってことかな。ご心配おかけしました、大丈夫です。行きましょう」彼の顔に笑みが浮かぶ。今度は満面の笑みだ。
二人は資料館をあとにした。星冶が自転車を引きながら歩いていくのを、少し後ろからついていく。
空を見上げれば、家を出るときと変わらず雲の流れが速い。
「一雨降るかもしれません。雲の流れが速いから」
「あ、ほんとですね。鵜ノ目さん、傘は?」
「持ってきてます」
ならよかったと、穏やかな一声がすでにこの青年の人柄の良さを語っているように思えた。
「保志さんが声をかけるまで、舞狗市と二葉市の歴史を見ていました」
「僕、あんまり行かないからなぁ。どんなことが書いてありました?」
「舞狗市のほうは、古くから川の氾濫や疫病に悩まされていたそうです。で、大きい森があるんですけど、当時そこに棲んでいた狼を神様と崇めて、森の奥地の神社というところにお供えをして、安寧に過ごせるようにとお願いをしてきたんだそうです」
「三上神社かぁ」
「保志さん。三上神社を知っているんですか?」
というのも、現在の三上神社は、立地の面からも規模の側面からもけっして目立つ存在とは言えないからだ。
「あそこは毎年けっこうな規模のお祭りをやってるでしょう?」
「なるほど。それで歴史の続きですけど、神様である狼の霊験で無事にすごせた年は、その年の収穫物を捧げる。その風習が現代にまで残って、三上神社への信仰と厄災を鎮めてくれた狼への労いの意味を込めて、先ほどのお祭りが行われるんだそうです」
「へぇー、お祭りの意味までは知らなかったです」
「狼が町の各地を駆け回って厄災を鎮めてくれると信じられていたことから、舞狗市と名付けられたそうですよ」
「舞狗市の『こま』は狼を表しているんですね」
勉強になるなぁと、星冶はしみじみと口にした。続けて、
「今度は僕の番です。僕、歴史マニアの彼女がいるんですけど、仁大寺に引っ越すという話をしたら、その歴史を教えてもらったんです」
自信に満ちた表情には、脂汗がにじんでいる。その顔色は、中心部に進むにつれて悪くなっているようだ。
星冶が咳払いを一つ。
「古代より馬耕が盛んだったこの地域は、馬を自分たちの家族のように大事にしてきました。亡くなった馬は土に還して厚く弔い、馬頭観音を建てました」
と、ここで星冶の歩みが止まる。
「保志さん?」目線を合わせられない代わりに声色で気遣う。
「だ、大丈夫です。それに、僕の講義はまだ終わってませんから」
笑顔を作ると、彼は先を続ける。
「馬を守り、その馬の死後の冥福を弔う馬頭観音は道の辻に多く見られるようになり、のちに数多の馬の慰霊のために仁大という僧侶の手で室町時代に仁大寺が建立、そのまま町の名前となりました」
大学での講義のように仰々しい口調で話していた彼は、冴歌に見えるように左の人さし指をピンと立てた。講義終了の合図のようだ。
「彼女さんの受け売りとはいえ、これ全部暗記したんですか? すごい!」
表情の変化に乏しい自分には珍しく、驚きの表情をしていると思う。感嘆の声を上げれば、青年は恥ずかしそうに左手で頬を掻いた。
インターネット上で知り合った人物とこうして実際に会うまでには、いろいろ不安があった。出会い目的のオッサンだったらどうしようとか、二か月はろくに外出せず『超常現象さあくる』に入り浸る生活から抜け出せるのかとか。
決め手となったのは、なんと言っても報酬のバナナうなぎ餅の存在だった。それは、冴歌の地元である舞狗市の名菓の名前だ。
まだ小学校も低学年のある日、コツコツと貯めたおこづかいを握りしめて向かった駄菓子屋にそれは並んでいた。形はうなぎのそれで、目とヒレがついている。見た目の愛らしさに迷わず手が伸びた。淡い黄色の薄皮の中には、求肥にくるまれたバナナ餡がふんだんにあしらわれている。口にしてみれば、しっとりとした薄皮にややゆるめの求肥。ほどよい甘さのバナナ餡。それは冴歌を瞬く間に虜にした。
「あ、そうだ! 僕っておっちょこちょいなんですよ。うっかり渡しそびれないうちに、約束のバナナうなぎ餅のファミリーサイズ十箱をお渡ししましょうか?」
「いえ! だってまだ怪奇現象の原因究明どころか、アパートにすら着いてないじゃないですか」
依頼の解決より先に報酬――それも大好物がもらえるなど願ってもない話だが、冴歌は素直に受け取ろうとする自分の姿を必死にかき消して言った。
バナナうなぎ餅は名菓には違いないが、地元民には親しみがあるあまり、かえって食されないのだと里親から聞かされたことがあった。そのとき、なんてもったいないんだと、悲しみを通り越して怒りにも似た思いがわき起こったのを憶えている。
以来、誘い合って買い行くような友人は誰一人としていなくとも、冴歌の隣には常にバナナうなぎ餅があり、バナナうなぎ餅とともに生きてきた。毎食後のデザートにはもちろん、小休憩や小腹の空いたとき、あるいは夜食のお供にも。
どこに行くにも、通常パック五個入りを三セット持ち歩くのがお決まりで、万が一にもつぶれないように、いつも発売四十周年記念のプレミアムケースに大事に収められている。プレミアムケースは、一定数のシールを集めれば誰でも手にできるものだったが、記念品というだけあって非売品だ。そんなバナナうなぎ餅は、もちろん今日も紺の肩掛けバッグの内ポケットに。
たまたま話に出た流れで、これでもかというくらいバナナうなぎ餅への愛を語った冴歌。
「鵜ノ目さんは本当にバナナうなぎ餅がお好きなんですね。最初はたしか、ファミリーサイズの三十個入りを一箱くださいっておっしゃってましたよね。でも、僕が商店街の福引で十箱も当てて、『甘いものが苦手で困ってるから全部さしあげます』って言ったら、すごい喜んで……。絵文字や顔文字こそなかったものの、ビックリマークとはてなマークがたくさん付いた『いいんですか』って送ってくれましたよね」
そのときを思い出しているのか、くつくつと笑う星冶とは対照的に、照れ笑いを隠す冴歌。
三十が三百になったとはいえ、所詮は駄菓子。贈答品には到底適わないがどこへ配るでもなし、冴歌一人の腹の中に入っていくだけだ。
怪奇現象の原因を突き止め、報酬を手にした自分を思い描く。この上なく理想的な姿に、冴歌ははやる気持ちが抑えきれなくなっていた。