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オカルテット9 しこり

登場人物

東條・レイ・エミル


+総代の深見さん




     九  しこり



 ⸺時は遡り。
 すり足は崩さず逃げ込むように社務所に戻った若宮司⸺東條・レイ・エミルは、小窓からガラの悪い男と目線を合わせようとしない女の後ろ姿を認めるなり、大きな嘆息を漏らした。
 それを聞きつけたかのように、社務所の奥から総代の深見が顔を覗かせた。
「エミルさん?」
「ああ……深見殿、いらっしゃったのですか。お見苦しい姿を晒してしまい、大変失礼いたしました」
 いぐさの匂いも新しい畳に頭を擦りつけんがばかりに、エミルは土下座する。
「深見殿には頭が上がりませぬ。毎日丁寧に掃除やら諸々を行っていただくに留まらず、小生を始め我が東條家のことを気にかけてくださって」
「氏子のみなさまの代表ですもの、半端なことはできないわ。それよりも、お顔を上げてくださいな」
 赦しの言葉を得たエミルは徐ろに顔を上げ、両手を年季の入ったちゃぶ台へ静かに置いた。百九十センチに迫る長身から伸びる長い手足は、色白で陶器のようにきめ細かい。そこに洗練された一挙一動が加わることで、良家のお坊ちゃんという印象が確たるものとなる。
 覗き込まれでもしない限りは参拝者には姿が見えないように、しかしこちらからは参拝者が見える絶妙な位置取りで、二人は束の間の休息を取る。
「わたしも境内で少しお話をしましたが、今しがた鳥居を潜っていく参拝者様と何事かございましたか?」
「およそジェントルマンと呼ぶには程遠い男のほうが、どこから仕入れたのか小生が視える者であると知っていたのです」
「……そうでしたか」 
 深見の声にためらいがいっそう色濃く現れる。
 横文字は流暢に、口調は堅苦しく古めかしいのが三上神社の若宮司の特徴である。声だけ聞いたならば三十路手前とは到底思われない若者は、後を続ける。
「隣町の仁大寺で起こっている心霊現象らしきものを、小生の力で解決してほしいと言っていました」
「おや、仁大寺で? それは初耳ですわ。それで引き受けたのですか?」
「無論断りました。忘れもしない十二年前の四月二十六日。最後に見たヴァンの顔が毎晩夢に出てくる。あれから毎日祈れども、山の神はもちろん風の精霊さえ視えない……! 霊視だの憑き物祓いなどは、村の方々のご依頼で十二分です」
 ちゃぶ台の二つの拳は、強い赤みを帯びて小刻みに震えている。
「弟のヴァンくんが隠された話は、風早村(かざはやむら)の住人なら誰しもが知っていることです。エミルさんの時間が、そこでずっと止まったままなのも……」
 柔からかな声に遠慮が混ざった深見の言葉は、発したそばから力なく畳に落ちていくようだった。
「信仰とは廃れていくものなのでしょうか。風の精の伝承を信じるのも、今や我が東條家の人間と一部の村民。我が家に限って言えば、小生より下の世代には半信半疑のようです。怖がりのシエルはまだしも、ヴァンにいたっては作り話だと言って昔から完全に切り捨てていましたから」
 「そういえば⸺」と言いつつ、深見はコトンと音を立てて緑茶の入った湯呑みを若宮司の前に供した。青いメッシュの入った銀髪はかすかに揺れるが、その顔は窺い知れない。
「シエルちゃんといつかお会いしたとき、『学校の怪談シリーズを教室のみんなに聞こえるように話す男の子がいて、嫌なの』と大泣きしていたところに出くわしましたわ」
「だいぶ昔のことですが、小生も憶えておりまする。深見殿が拙宅まで送ってくださってそのご説明を伺うまで、青大将と言われるクラスメイトにいじめられたのかと早合点しましたから」
 深見はころころ笑って「それは蛇の名前ね。ガキ大将ですよ、エミルさん」と訂正すると、青年はようやくがばっと顔を上げた。文字通り目を丸くして、それから口元に右手を添える。雅やかな女性を思わせる所作も、彼にかかれば違和感などみじんもない。
 「泰然自若としたエミルさんのレアショットね」     
 青年は咳払いを一つ返して、威儀を正した。
「元より昔から怖がりの泣き虫ですが、あの日はそれまで見たことないくらいの様相でしたから。泣き止んだら、これまたこれまで以上に『エミルお兄ちゃん、ヨシヨシして』とせがまれました」
「ふふ、エミルお兄ちゃんも、そんな妹ちゃんが可愛くて仕方ないんですものね。それに、シエルちゃんは昔からお兄ちゃん⸺特にエミルさん大好きっ子ですからねぇ」
 深見は目を細め、ためらいながらも一人分の距離を空けてエミルの斜め左に正座した。ほどなく、「あら」と一声漏らした。
「茶柱が立っていますよ!」
 それまでの雰囲気のまま話しかけた深見は、若宮司の豹変に愕然とした。伏し目がちな彼は微動だにしない。
「あの日……」
 おろおろしているうちに、エミルが先に声を発した。
「小学校に上がって初めてできた友人と遊びに行くのだとヴァンは珍しくはしゃいでおりました。小生は『其方も六歳になったのだから、風の精には気を付けなさい。つむじ風を見かけたら、そこに三つの小石を投げるんだよ』と伝えましたが、彼はいつものように『どうせ作り話だ』と言って取り合わなかったのです。一瞬のふくれっ面ののち、満面の笑みで手を振って出かけて行った彼は、未(いま)だ帰らず」 
 哀切を極めた物言いに応じるのは、皮肉にも皐月風のささやき。一呼吸置いてエミルは続ける。
「我が家以外で伝承を信じているのは、風早村の中でも今やご年配の方々です。村への入り口、門としての役割を背負うたこの社が存続していけるのは、ご年配の方々の篤き信仰心と、総代も四期目に入った深見殿の仕事ぶりのおかげです。毎年幾人かの村民が隠される、風の精の伝承。幼子だけではなく時に若人も含まれるゆえ、下の世代にも三上大へ神社への信仰と風の精の伝承を浸透させていかねばなりませぬ」
「あまり気負わないでくださいな」
「しかし、現状はそう甘くはないのは深見殿もご存知でしょう?」若宮司は畳みかける。
「父が三年前に急逝してからというものの、母は牛馬のように働き、兄のボワとまだ幼いシエルまでも、その手伝いで夜遅くに帰ってくる。例祭などは、氏子様方のお力添え無くしては到底執り行えないのです」
 ここへきて、「あ! そうそう‼」と深見は一段と声を張り上げた。反射的に青年の肩が跳ねる。 
「お母様のルシルさんとお兄様のボワさんとは、つい数日前にお会いしましたよ。ほら、例の市場で話題のスイーツがあるでしょう? あれを手にして『エミルさんとシエルちゃんの顔が早く見たい』と、お二人とも心底明るいお顔つきで。お声は掛けそびれたのですけれど、わたしも安心したんですよ」
 思わず、探りを入れるような視線を送る深見。彼がそうしたものを嫌うことは既知の事実だったが、すがるしかなかった。
「……お心遣い感謝いたします」青年は一度は眉をひそめたが、やや間を取ってから穏やかな表情で謝辞を述べた。
 「やっぱり聡い子だわ……。私情を捨てて、すぐに相手の思いのすべてを汲み取り、適切な対応をする。大の大人でもなかなかできないのに」
 深見の口から小さな感嘆が漏れる。
「深見殿、どうかされましか?」気を揉んでいた青年からの心遣い。立場はすっかり逆転だ。
「いえ、何でもないわ」
「ときに。先日、シエルが深見殿からブドウをもらったと大はしゃぎしておりました。その折も大変お世話になりました」
「ふふ。シエルちゃんはブドウがお好きだと以前おっしゃっておりましたから。エミルさんを含め、東條家のみなさんに何を差し入れしようかと考えるのが、わたしの楽しみでもあるんですよ」
「誠に忝ない」
「そんな水臭い! これもご近所付き合いの一つですからね」
 深見は朗らかに言うと、湯気を立てている緑茶を勧める。
「ささ、冷めないうちに。いつもの銘柄ですよ」
 「頂戴いたします」とエミルが湯呑みに手をつけたところで、深見はようやく愁眉を開いたようだった。 
「お勝手を拝借しますね。お昼もまだでしたでしょう? いつもの玄米おにぎりに味噌と少しの野菜をご用意いたしますから」
「感謝いたします。ああ、今は汁物は結構ですので」
 味噌と少しの野菜の部分を強調した深見は、気さくな了承の言葉を残して嬉々として渡り廊下を歩いていく。
 エミルはその背中を見届けながら、大きな音を立てることもなく一口緑茶を飲む。指先まで研ぎ澄まされた優雅な所作で湯呑みをちゃぶ台に置いたとき、あえて長めに残している前髪が一筋、頬を撫ぜた。
「…………。ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。……小学校の国語で、かような書き出しの日本文学を習ったな」
 口を衝いて出た言葉たちを深く味わうように、眉目秀麗な西欧系の青年は目をつむる。
「髪を染めているのかと尋ねられることも多々あったが、生来のものだと申すと皆うらやましそうにしていたことよ」
 さながら一縷の蜘蛛の糸のような髪色については、密かに気に入っていた。
 わずかに口角を上げたかと思いきや、その唇はきりりと引き締まる。
「東條旭。我が父にして先代の神主。そして、歴代最高と謳われた力の持ち主。史書に拠れば、力は次世代の一人のみに受け継がれてきたと言う。力持つ者が三上神社の神主を務める。父は、小生が幼き頃より、跡取りとして必要な作法はもちろん日本文化についても教授してくれた。教養の深さ、人間としての器……何もかもが桁違いであった」
 青年はまぶたを持ち上げ、袴紐に括りつけられた牛革の小物入れに触れた。縦長のそれは一見すると、現代に不可欠なスマホを入れるケースのようだ。しかし、出てきたのは短冊状の一枚の紙。三上神社の御朱印を中央に据え、草書の連綿体がその周りで円環を成している。
 舞狗市の由来にもある狗(いぬ)とは狼のことを表している。現存する狼信仰をおこなう神社の一つとして、三上神社には狛犬ではなく阿吽の狼像が祀られている。そんな三上神社に仕える社家として東條家は名の知れた家柄であった。
 だが、そこにもう一つ別の顔があることは、市内北部のクローズド・サークルと言える風早村の住民たち以外には知られていない。その顔こそが、物の怪を祓ったり守護霊を使役したりと、俗に言う陰陽師のような不思議な力を脈々と受け継いできた顔なのだ。東條家の人間および風早村の住民たちは【魈払(すだまはらい)】と呼称し、古文献にも記してきた。
 今しがたこの青年⸺東條・レイ・エミルが取り出したのは、仕事道具である霊符の一枚で、小豆色の小物入れにはそれが何種類も収められている。褪色と傷みの激しさがその歴史を語っていた。
「氏子様の中には、小生と話すときはいつも『旭さんと話している感覚になる』と仰る方も居られるが、神職としても魈払としても未熟な己が身には畏れ多きことかな」
 渡り廊下の向こうから、小気味良い包丁の音が届く。
「にしても先刻の⸺たしか横山大和と言ったか。あの輩はなにゆえ小生の力を知っておったのだ……? それに、隣にいた筆談レディーは何者なのだ? 曖昧模糊としていたが、なにがしかの大きな力に護られておるのを感じた。彼女のルーツも、我が東條家と同じ風早村なのか⸺」
「はーい! お待ちどおさま」
 エミルの独り言はそこで遮られた。パタパタとスリッパを鳴らしながら、深見が漆のお盆を両手に現れたのだ。木のぬくもりがあふれる小皿には半合ほどの玄米おむすびが二つラップにくるまれている。木製の平皿には棒状になった人参ときゅうり、大根。その隅には小さじ一杯ほどの赤味噌がちょこんと乗っかっている。
「本当に、これだけで足りちゃうなんて羨ましいわぁ。そんな人にわたしもなりたい、ってね」
 互いの裏も表も知り尽くした相手が愛嬌たっぷりに自分の腹の肉をつまんで見せる。嫌味のない茶目っ気と心得ている若宮司は「まっこと、敵いませぬな」とその日初めて心の底から笑った。

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