チキンライス的な日本の原風景


(20190609のヤホーブログ記事の加筆修正)

よく日本の原風景とかいうけど

あのイメージに対して日本人として感じるのは

童心とか素直とかと同時に緩やかさだろうなぁ。


自然と時間がそのまま、緩やかに。

人間が自然に歩み寄って敬っている感じ。

いろんなものが揃わないから、

なきゃないなりにガマンして、補い合う。

人間同士だけでなく、自然とも

一体感があったのではないか。


自然をどこかで中心においていた日本人。

災害大国だからこそ、って感覚はあっただろう。


やっぱ人工的な空間って、なんか嘘くさすぎません?

人工的な空間が増えすぎると、熱を逃がせないし。

付け足すように、添え物的に自然をつくっても

ウソの自然は弱くて人工的な空間にのみこまれて

存在感は造花のよう。


都会に緑をっていうけどその緑は、おもちゃなんですよ。

自然と自然のあいだに、囲まれている緑が自然であって、

それが自然(あるがまま)なんですよ。


文字通りの自然でなくて、不自然にしかみえない

(コンクリ)(自然っぽい緑)(コンクリ)

これだと緑に負荷がかかりすぎるでしょ(笑)?

左右に逃がせられて、中和させられるのが自然でしょ。


逆に地方では、自然に人工空間を持ってくる。

残念な田舎は、いつも都会の流れやシステムを

トレンド遅れを気にしないで、そっくりそのまま

自然に都会をもってこようとして、

ヘタこいてセンスなく不自然な景観になっています(笑)


定着したころにはもう流行ってもいない。

タイムラグを予測して手を打たないからですね。

まちづくりってこんなにヘタなんだな、って

日本全国ほとんどの地域の住民は思ってます。


自主的に考えてやるとしてもポイントがある。

ジャイアンが考えたら、ジャイアンがやればいい。

ジャイアンが考えても、出木杉君がやるからヘタをこく。


みんなの期待に応えるとか、

みんなにわかりやすくいいコトしようとか

そっちに意識を飛ばしすぎてるから、

結果的にどこも似たような

日本の人工的な風景になっちゃう。


鉄やプラスチック、コンクリートの人工的な冷たさと

逆の恐ろしいほどの電力による熱さと自然破壊で温暖化…。

これには寒気(笑)

冷たいんだか熱いんだか、暑いんだか寒いんだか。


地方は「要らぬカンバン」に景観を汚されても

しょうがないと首を縦に振るしかない始末。

稼げませんもん。

それ要る?ってコンビニや系列店だらけ(笑)

無駄に広い駐車場と反比例する過疎化感。

同じ値段も不公平なくらい。

常に10円引きシールでいい。


みんなの意識を半歩先いって導くほうがいい。

みんなに合わせるとたぶん落ちる。

もうネット空間にまちの全部のカンバンを移してもいい時代でしょ。

現代人は周囲をみているようでみていない。

一番みてるのはスマホの画面だから、皮肉にも。


みんなが欲しいものと少し違う、昔の日本人がもっていた

淡くて、やわらかい、でもあたたかい

自然のなかにいる人間のたたずまい。

「チキンライス」的な昭和の日本の原風景。


でも昭和の汚し文化じゃなく、人間性の名残のほうね。

なんかわからないけどみんなガマンして、辛抱して

前を向いてシアワセに豊かになろうと

「ぼんやり」願っていた時代の気持ちのほうを。

ワタクシは自分の両親や祖父母、

親戚、近所のお年寄りなどから

なんとなく感じ取っていました。


あの感覚、若い子は味わったことないでしょうけど

なんでもそろわない時代のほうが

人の温かさみたいなものあったんだろうなって

若者もウスウス感じてると思いますよ。


私たちが次の世代に残していくべきなのは

チキンライス的な日本の原風景でしょう。

たぶん、発展させよう良くしようと

続けることがしんどくなる。

人が自然と穏やかに過ごせる空間を取り戻したい。


日本だけにしかできないような、

空間づくりってあるはずです。

空間が変われば、その社会全体の空気も人も変わる。

核も武器も持たなくたっていい、

なごむ空間と自然と共生しながら

世界に対して「撃てるもんなら撃ってみ?」でいい。

もちろんケンカ腰でなく、

ニコニコしながらシアワセそうに。

撃ったほうがハチの巣にされるよ。


みんなが戦おうとするからだよ。

構えれば、相手も構えるんだから。

揃えたら、相手も揃えるよ。

あえて初期のラモスだよ、

カレーだよ、Jリーグ開幕だよ(笑)


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