青い月夜に出会った女
ある女を思い出してブルームーンを味わった。
青い月という名のカクテルだが、作り手により色合いが違うのは、月灯りが角度によりその趣きを変えるように、バーテンダーによりレシピが異なるからだろう。
あるいはレシピは同じで、僕の心境がそれぞれの色を映しているのかもしれないが、そんな不安定な年頃はずいぶんと前に過ぎ去った。
青い月夜は非常に珍しいことから
「Once in a blue moon」は「稀なこと」と訳される。「稀な夜に」と意訳しても良いかもしれない。
そんな青い月夜のバーカウンターで、稀なことが起こったのだ。
僕がバーカウンターに座ると、ちょうどひとりの女がカクテルを飲み終えたようで、グラスの底には青い雫が残っていた。
女は僕と入れ違いでカウンターを後にした。その去り際に女と目が合うと遠い記憶に触れたようだった。
彼女は僕に何かを言おうとしたように見えたが、その唇は沈黙を守っていた。
それは僕が酒の飲み方も本当の悲しみも知らない頃のことだ。
僕はバーカウンターでウイスキーをオンザ・ロックで飲みながらサマセット・モームの『月と六ペンス』を読んでいた。
その頃の僕は酒といえばウイスキーしか飲まなかったし、本といえば小説しか読まなかった。
誰かと飲み語り合うでもなく、ひとりで酒を飲みながら本を読んでばかりいた。それはワイングラスを傾けながら、惚れた女とメインディッシュを選ぶような夜とは最もかけ離れた日々だった。
バーテンダーはグラスが空く頃に斜め前に立ち、僕がウイスキーの銘柄を告げる。すると手際良くバーテンダーがワンジガーのウイスキーをグラスに注ぐ。その間、僕はモームの小説世界に浸かりながら新たなウイスキーを待つ。そんな穏やかな夜に3杯目のウイスキーを飲んでいると、ひとりの女が現れた。
「ブルームーンを」
彼女はカウンターに座るなり迷わずにオーダーした。
バーテンダーがブルームーンを注ぐと、彼女はカウンターを見渡すこともバーテンダーに話しかけることもなく、ただ目の前のカクテルをじっくりと味わっていた。
淡い青色のカクテルは彼女の桜色の唇に吸い寄せられて、グラスは透明感に満ちていた。
ブルームーンを飲み終えた彼女はようやく僕に気づいたようだった。バーカウンターで本を読んでいるのが珍しかったのか、彼女は空いたグラスを手にして僕の隣に座ってきた。
「月と六ペンス、私も好きだわ。金原訳で読んでるのね」
いささか急な展開に動揺を隠しながら、本から目を離し、ウイスキーを一口飲んでから彼女を見た。すると彼女も視線を本から僕へと移してきた。
「金原訳がいちばんストリックランドを魅惑的に書いています」
「ストリックランドはあらゆる小説の登場人物の中でも最も魅惑的だわ。ムルソーよりもスタヴローギンよりも」
「それは僕も共感します。この本を読むまではホリー・ゴライトリーでしたが」
「ふたり共に本能的ね。ストリックランドは生きるために絵を描くのではなく、絵を描くために生きていたの。だから絵を描くためであれば、生活も家族も愛さえも犠牲にしてしまう。絵を描く衝動は彼にとって何よりも抑え難く、何よりも純粋な衝動で、それは愛よりも強かったの」
そう言うと彼女は、僕の空いたグラスに視線を移した。
「ウイスキーを飲んでいるのね」
「はい、しばらくウイスキーしか飲んでいないので他の酒の味を忘れてしまいました」
「わたしはブルームーンが好きなの。青い月夜にしか飲まないけれど」
僕はその夜の行く末に期待しながら4杯目のウイスキーをオーダーしたが、彼女は留まっていた。
バーテンダーがグラスにウイスキーを注ぐと、僕の心を察したように彼女は言った。
「あたなとはもう少し話していたいんだけど、今日は帰らなくちゃいけないの」
そこで僕は彼女と酒を飲み交わし、語り合いたいという気持ちを自覚した。衝動には及ばないが、彼女を引き止めたい気持ちを必死に抑えた。
「次に会ったときにはブルームーンで乾杯しましょう」
そう言うと彼女は『月と六ペンス』にメモをはさみ去っていった。
残された僕は、今そのメモを見てはいけないと言い聞かせてウイスキーを飲み続けた。その夜は珍しくアルコールに身を任せて、記憶が遠のく程に酔っていた。
それ以来僕は『月と六ペンス』のページを開くことはなく、彼女がバーカウンターに現れることもなかった。それから僕はひとりでウイスキーを飲み続けて、いくつかの苦い恋や、淡い愛に触れながらそれなりに成熟した。
バーカウンターにいた女が数年前に会った女かは分からない。
僕だけがバーカウンターに残ると、過去の記憶をなぞるようにブルームーンをオーダーした。
「今日の月は何色でしたか」
バーテンダーが僕に言った。
「さぁ、月を見ることなく酒を飲みに来たので」
「ブルームーン、ここでは年に数回しかオーダーされません」
「僕もオーダーしたことはありません」
「何かきっかけがあったんですか。ブルームーンをオーダーする」
「月と六ペンスとブルームーンが好きだと言う方がいて、それを思い出したんです」
「このバーでは青い月夜にしかオーダーされません。わたしは仕事柄、長らく月を見ることがないのでブルームーンがオーダーされると、その夜が青い月だと知ることになります」
「それなら今日は青い月夜なのかもしれないですね」
「はい、お客様の他にもブルームーンのオーダーされた方がいらっしゃいました」
先の女がオーダーしたと思ったが、それは自らに留めておいた。バーテンダーにはどこまでを話して、どこまでを話さないかのラインがあるからだ。
「Once in a blue moon 非常に稀な夜です」
そう言うとバーテンダーは長すぎないシェイクの末にブルームーンを差し出した。
それが何色に見えるかは我々次第なのかもしれない。ただ僕の目にそのカクテルは青くは映らなかった。
その後、僕は3杯続けてブルームーンをオーダーしたが、いずれも青くは見えなかったから、諦めてカウンターを後にした。去っていった女の目には何色に映ったのだろうか。
外に出て空を見渡すと、どこにも月は見当たらなかった。ただ僕の目にはその闇がいつもより明るく映っていた。
帰り道、僕はあの夜にバーカウンターで1度だけ会った女との会話を思い出し、久し振りに感じた感傷に戸惑いながら夜道を歩き続けた。
帰路に着くと僕は本棚から『月と六ペンス』を取り出した。そこに手書きのメッセージが添えられているのを見て、僕はあの夜に彼女が渡したメモだと悟った。
「また青い月夜に会いましょう」
僕はもう1度外に出て夜空を見渡した。
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