彼への想いを断ち切る方法と彼女への想いを断ち切る方法
「わたし、このままだと不倫してしまいそうなんです」
初めて2人で飲みに行ったバーカウンターで彼女はためらいなく言った。
おどろいた素振りを見せてはいけないし、こちらから質問するのもまだ早い。
私は当たり障りのない相づちで間合いを保ちながら彼女が続きを話すのを待った。
彼女はウイスキーソーダを味わいながら横目で私の反応を確かめてきた。
彼女の視線が私に留まると、私は目をそらし僅かに早まる鼓動を意識した。
「わたし、結婚してるんですけど、旦那はわたしを抱いてくれなくて、何度もその訳を聞いたけど答えてくれなくて、でも別れてもくれないんです。そんな時に彼に出会ってしまい、より満たされない気持ちが強くなったんです」
どうやら彼女は私の知り合いの妻子持ちの男を好きになったらしく、何とかその思いを断ち切りたいようだった。
私は早まった鼓動が落ち着くのを待ってから言った。
「女の人が抱かれたくても抱かれないのって、男の人が抱きたくても抱けない気持ちよりも辛いですよね」
「そうなんです、よく分かりますね、その気持ち。でも旦那に抱かれることはもうあきらめてるんです」
彼女は曇った表情を和らげて応じた。
「彼にはまだ抱かれてはいないけどわたしはそれを求めてるし、多分彼も私を求めてます。だから機会さえ訪れれば、もう一線を越えてしまいそうで、その状況が訪れてしまう前に彼への思いを断ち切りたいんです」
彼女と私はまだ敬語で話し合う仲だった。
「彼への思いを断ち切りたいのは、彼の奥さんやお子さんを傷つけたくないからですか。それとも自分が傷つきたくないからですか」
「どちらでもない、です。自分や誰かを傷つけたくないんじゃくて、わたしは自分が悪者になりたくないだけなんです。でもどうしても手にしたいものがあり、それが手に入る状況が目の前に現れたとします。さらにその状況が2度と訪れないことを悟った時にあなたは人としての正さを保つためにそれに抗えますか。わたしは抗える程に強くも正しくもないし、自分が人並みに弱くてずるいことも自覚しています。だからといってわたしには悪者になる覚悟もないからこの気持ちを今の内に解消しておきたいんです」
まだ何とか理性が保たれている彼女はその思いを私に打ち明けてきた。
同性の私から見てもずるい程に魅力的な彼は、自らの行為に収まる緩急のポイントを無意識に見極めていた。
相手との間に緊張感を保ってからの彼の緩み始めの仕種には、欲と隙が絡まり色気がにじみ、危険な香りが立つ。
目が合ったかと思えば、前触れなくその目を細め、相手の遥か後ろを見る。その眼差しには憂いな寂しさがまとわれているようにも感じられた。彼の眼差しを目にした女性は、ほぼ例外なくその瞳に視線を留めていた。
そんな彼の女性関係はお世辞にもきれいとは言えず、彼を好きになった女性はみんな傷を負っていた。
彼はその度に「その時は真剣だった」と言い放ち、彼女たちは「嘘がないのが彼のやっかいなところなの」となげいていたが、その傷が癒えるまでにそれ程時間はかからなかった。
たとえば春先に彼と出会い、恋に落ちて、見放され、彼を憎み、やがて無関心になるころに梅雨が始まるか明けるか、そのサイクルは季節で区切られることがほとんどだった。
彼女たちが傷を負っても尾を引かなかったのは、彼の男性としての振る舞いや行動力に惚れていたが、彼の本質に触れることがなかったからかもしれない。
今回私に相談してきた彼女は、今まで彼に惚れていった女性たちとはその成り立ちが異なっていた。まず彼が抱いてきた女性は例外なく独身であったが、彼女は違う。
そして彼女は彼の仕草でも振る舞いでもなく、その言葉に惚れていた。
何よりも彼から放たれる言葉総てがどうしようもなく好きだと彼女は言う。
彼の言葉が好きなのか、彼自身が好きなのかを問うと、彼女は彼の言葉が好きだと即答して
「でも彼の言葉は彼以外から聞くことはできない彼だけの言葉だから、わたしは彼自身のことが好きです。でもその言葉を取りのぞいたら彼には興味のかけらも持てないと思います。だからわたしが好きなのは、彼自身ではなく彼の言葉だと思います」と彼女は用意されたセリフを読むように滑らかに答えた。
彼は彼女が話すどんな些細な事柄でも、知性で包装された美しい言葉を返してくれるという。
まぎらわしい言い回しや理屈で固められた言葉を嫌う女性もいるが、理知的な彼女にはそれが何より心地好いのだろう。
「彼はシェフが提供された材料の中から素材の旨味と相手の好みを割り出し料理へと導くように、わたしの状況にぴったりの言葉を響かせてくれるんです」
と彼女は言う。
彼は彼女の状況を正確に捉え整理する。整理された情報から曖昧さをろ過して整然さを抽出する。そこからを美しさを導き彼女の耳へその言葉を届ける。
彼の言葉は彼女の耳から思考を伝い、心に触れながら染み付いていく。染み付いた言葉は、美というラベルを貼られ彼女の記憶に保存された。
さらにやっかいなことに彼の言葉は、彼女にとっての真実を突いていたようだった。
「君は人を観察する能力に長けていて対人スキルが高いから、誰に対しても開いているように見える。例えば君は対話において、相手のニーズを瞬時に見極め、それに応じた適切なフレーズを返す。加えてそのラリーの主導権は常に相手に委ねつつも君は相手のニーズに沿って会話を誘導する。そんな離れ業は君にしかできないし、人は君の社交性を高く評価するだろう。
けれどそれは外側から見える行為が友好的であることを示しているに過ぎない。内面は極めて閉鎖的で本音は遥か奥底に埋まっている。内面が閉鎖的だからこそ、本心を悟られないよう高い対人スキルがそれを巧みに隠しているように見える。いわば君の本質は閉鎖性を隠すために装いを開放的にするという巧妙なレトリックで覆われている」
彼女は彼に言われたセリフをほぼ正確に教えてくれた。
「彼はその言葉でだれも触れることのなかったわたしの心のある部分を掴みました。かなり強く。彼の言葉を聞くことは快楽に近く、その感覚、そう、言葉が耳に触れる感触という方が適切ですね。それを味わったら最後、もうその感触のない日常に耐えることは極めて難しくなってしまったんです」
私が聞いた限り彼の語り口は彼女のそれとよく似ていたから、思考の流れや波長もぴったりと通じ合っていたのだろう。
彼の言葉は彼女の心を解像度高く捉え、彼女はそれを快楽と感じている一方、彼への思いを断ち切りたいとも切に思っているようだった。
「でも、わたしはどうにかして彼への思いを断ち切る必要があるんです。それは動かしがたい真実です。彼にどうしようもなく惹かれているということと、彼から離れなければいけないということが皮肉にも同じくらいに確固たる真実なんです」
どうしたら彼への思いを断ち切れるのか。
彼女が私に相談してきた内容は、その問題が秘める複雑さに比べれば極めてシンプルだった。
彼女の彼への思いを何とか解消させたかった私は、彼女の心の状況を紐解くことを試みた。
「彼の言葉があなたにとって心地好いのは、その言葉があなたへの理解を示しているからですか」
「はい、そうだと思います。わたしが認識している私を彼が言葉で表してくれているのが何より心地好いんです」
「ではあなたが求めているのは自分に対する深い理解なんですね」
「そうですね。彼ほどわたしを理解してくれる人はいないと感じられるから、それが快楽に近いぐらい心地好いのかもしれません」
「でもそれだけでは満たされないんですよね。彼はあなたを理解した上で、あなた自身を受け入れていると感じますか」
「それはどうでしょうか」
彼女は自らの核心に近づいたようだった。
さらに彼女が真に求めていたことを掘り下げていくと、彼女は自身への深い理解に加えて、自分を受け入れてくれること、すなわち許容を求めていることが分かった。そして私が聞く限りでは彼の言葉は彼女に対する理解を示したが、そこに許容は含まれていなかった。
許容の成り立ちを紐解けば、そこには理性で受け入れた上での情が含まれていた。その情に好感が加われば人はそれを愛情と呼ぶが、彼女は好感という移ろいやすく崩れやすい感覚は求めてはいなかった。
いわば彼女は、愛情から好感が切り離された許容という地味でありながらも理性に裏付けられた深い情を求めていた。
彼が冷静に鮮やかに彼女の状況を言葉に転換することができたのは、そこに情がなかったからなのかもしれない。だからこそ彼の眼は曇ることなく、彼女を解像度高く見ることができたのだろう。
皮肉にも許容が伴わないからこそ、そこに深い理解が生じていともいえてしまう。
渦中にいる彼女は自分が求めていることと、彼が自身に与えてくれていることの差分には気付いていないことを自覚していた。だから私に自身の状況を伝え、互いに言語化することで自らを相対化したかったのだろう。それは彼に惹かれてしまう彼女らしい合理的な考えだった。
いずれにしても彼への思いを断ち切るには彼に情がないことを彼女自らが体感する他なく、彼を知る私は、彼に抱かれることしかその術はないと確信した。
彼女自身がその方法を思いつけばいずれ彼女は彼に抱かれるだろうし、思いつかなければ彼への思いは断ち切れない。
彼への想いを断ち切れない以上、彼女は遅かれ早かれ彼に抱かれるはずだから私が唯一思いついたその解決法は彼女には伝えなかった。
答えはいつだって誰かから示されるよりも自ら導いた方が自身の免疫になる。それは私自身が経験したことから得た数少ない真実の1つだった。
加えて私の本能は、彼女に彼への思いを断ち切って欲しいと同時に彼に抱かれて欲しくないとも感じていた。
数日後、彼女と2回目に飲みに行った時に彼女はためらいながら言った。
「やっと彼への思いを断ち切れました。でも彼に抱かれてしまいました。引き分けというか、上手くいかないものですね」
想定はしていたものの、私はその報告を快く受け止めることはできなかった。
冷静を装い彼女に聞くと、言葉だけでは足りないことに気付いたのは私が確信した通り彼に抱かれた時だと彼女は言った。
「女を抱いている時に男は自分の気持ちが露わになるんです。でも彼はわたしを抱いている時でさえ冷静でした。彼はわたしを深く理解はしてくれていたけれど、それ以上でも以下でもなく、その先の感情は伴っていなかったんです。彼に抱かれることで、本当に求めていることは彼からは得ることはできないことに気付きました。それに気付くと自然と彼への思いは消えていきました」
彼に抱かれる前に思いを断ち切りたいという彼女の悩みは、彼に抱かれたことで解消されたようだった。
その事実は私に彼に対する嫉妬と彼女に対する好意を芽生えさせたが、私はその時はまだ自らに芽生えた感情から目を背けていた。
「聞いてくれてありがとうございます。もっと話していたいんだけど今日は早めに帰ります」
彼女は先にバーカウンターを後にした。
そういえば、いつも銘柄を指定せずにウイスキーソーダを飲んでいた彼女は、ラフロイグをロックでオーダーしていた。
ロックグラスに残された氷は静かに溶けてその姿を少しずつグラスに馴染ませていた。
彼女の彼への思いは、私にとっての彼女への思いの歯止めになっていた。だから次に彼女と会った時に彼への思いが解消されていたことは、私にとって喜ばしくも新たな感情と対峙する発露にもなっていた。
彼女のグラスの氷が完全に溶けたことを確認してから私はカウンターを後にした。
「また飲みに行って色々話したいですね。もし良ければまたこちらから連絡します」
その夜彼女からメッセージが届いた。
そのメッセージにはもう1度彼女に会うか会わないかの選択肢が設けられていたが、もはや会わない選択肢を選ぶことは私には不可能だった。
その上「こちらから連絡します」という言葉は、その機会をいつ知れず待つことしかできない私にとって緩やかな残酷さを示していた。
その日から私の頭と心は彼女のことを考え思うことで充ちていた。
たとえば私は彼女の容姿について思いを巡らせた。
彼女が今までに味わってきたであろう深い哀しみは、その容姿や仕種に美しさとして表れていた。
美しさの奥に哀しさが宿っているようにも見えるし、その美しさは彼女が通過してきた哀しみの深みを表しているようにも見えた。
彼女は歳を重ねる流れの中で哀しみを昇華させながら、陰に際立った美しさを魅せていた。
彼女の美しさと同じく確かなことは、彼への思いを断ち切ろうとしていた彼女とその思いが解消された後の彼女は、私にとって全く異なる存在になっていたことだった。
そして彼女との3度目の夜が訪れた。
待ち合わせのバーに着くと彼女はラフロイグをストレートで飲み終えるところだった。
彼女は私に気がつくと束ねていた髪をほどいて下ろした。左右に揺れたその黒い髪は彼女の白い首を隠しそこに留まった。
私はジントニックをオーダーして、彼女はラフロイグのソーダー割をオーダーした。
「今日は何だかいつもと雰囲気が違いますね」
彼女はジントニックのグラスを眺めながら私に言った。
気のせいか彼女からの視線は絶えず私に注がれているような気がしたが、私は彼女を見ることができずに目の前のバックバーに並べられたボトルに視線をそらした。
酒を飲みながら私は、彼女とのコミュニケーションは誰よりも滑らかに進むことを体感した。お互いがお互いの言葉の本意を掴んでいるようにも感じられ、話が尽きることはなかった。
途中そのことを彼女に伝えようとすると彼女の方から
「あなたにはつい思ったことを何でも話してしまいます。ここまで話すつもりじゃなかったのに」
と言って私の目の奥を覗き込んだ。私がその目を見返すと今度は彼女が視線をそらした。
その後しばらくは、話す側と聞く側が交互に入れ代わり、そのサイクルが保たれた。そして彼女が4杯、私が3杯の酒を飲み終える頃に彼女は時計を見ずに言った。
「残念ですがあと30分で終電が来てしまいます。あと1杯ずつにしましょうか」
名残惜しくお互いが最後の1杯をオーダーをした後も、会話は滑らかに弾み続けた。
「そういえばわたし、初めてバーに行った時に」
彼女が新たな話題を話し始めた時に30分が経過しようとしていた。
「バーテンダーの人が私を見て言ったんです~」
彼女は話し続けたが、様々な思いを抱えていた私は、あえて彼女の話を打ち切り時間を知らせる必要はないだろうと思った。
「~それからわたし、1人でバーに行くようになったんです」
話し終えたところで彼女は終電の時間が過ぎていることに気付いたようだった。
「どうしよう、、わたしタクシー呼びますね」
そう言いながらも彼女はその後の成り行きを私に委ねているようだった。
いくつかの往来の後、お互いにとって不自然ではない流れで彼女と私は同じタクシーに乗り私のマンションにたどり着いた。
彼女をソファに座らせると私はウイスキーを飲むかお茶を飲むかを聞いた。
「あなたがまだ飲めるならウイスキーを飲みましょう」
彼女と私はソファに座りウイスキーをロックで飲んだ。カウンターよりもお互いの距離は近かった。
思考がアルコールに犯される前に私は彼女を抱くか抱かないか、その答えを探し始めた。
会話はバーにいた時よりも緩やかに進み、しばらくしてお互いのグラスが空になった。
久振りの沈黙の後に切り出したのは彼女の方だった。
「そろそろ寝ましょうか。わたしこのソファで寝ますね」
私には彼女が1つの答えを示したように感じられた。
その夜、何杯飲んでも酒に酔えずにいた私はまだ冷静さを保っていた。
「いや、ベッドで寝ていいですよ」
私なりに答えを探った。
「あなたはどこに寝るんですか」
「ソファで寝るしかなさそうですね」
「そうなんですか」
彼女なりのそっけなさを表して言った。
お互いの譲り合いが続き、結局2人でベッドに入ることになった。期待を隠しながら私が仰向けになると彼女は私に背を向けた。
その背中は彼女なりの答えを示しているように感じられた。私が深く息を吐き眠りを求めようとすると、彼女はその身体を私の方に向けた。
私が寝ていないことを確認すると彼女は再び私に背中を向けて言った。
「眠れないんですか」
「いや、そうではないんですが」
はっきりと答えることができなかった私は、今まで彼女と交わしてきた会話を思い出した。
(女の人が抱かれたくても抱かれないのって、男の人が抱きたくても抱けない気持ちよりも辛いですよね。
そうなんです、よく分かりますね、その気持ち)
答えが見つからないまま私は小さく揺れる肩に触れ彼女を振り向かせて、その身体を抱き寄せた。
抵抗はなかった。
これ程までになく彼女に近づきながらも私は後戻りの道も探っていた。
「ねぇ、それ以上したら我慢できなくなるよ」
彼女の敬語が解除された。
彼女の手は私の背中に届き、お互いに抱き合う体勢が保たれた。
私は彼女の唇に僅かに触れるぐらいに曖昧に唇を重ねた。
彼女は僅かに重ねられたままの唇を動かして小さな声で私の下の名前を呼んだ。
その時私は彼女のことが好きだとはっきりと自覚して彼女を何より強く欲した。
「今のわたしの気持ちは明日も同じとは限らないから」
彼女は一旦私の腕をほどきながら言った。
私は再び彼女を抱き締め彼女もそれに応じた。
それを以ってもその体勢が保たれたのは、彼女を好きなその気持ちには、彼女に嫌われたくないという気持ちも含まれていたからだった。
彼女が何を求めているのか、あるいは求めていないのかが分からない私は、嫌われたくない気持ちを抱えながらも彼女を強く抱き締めていたい気持ちに従った。
似かよった2つの気持ちが淡く混ざり合い、保身と欲が互いを抑止し続けた末に、私たちは抱き合ったまま夜を越した。
眠れないまま明け方を迎えると、その空の明暗の変化のように彼女の態度は様変わりしていた。
「わたし、そんなつもりじゃなかったのに。やっぱりあなたも横で寝る女の前では男なんですね」
彼女は背を向けて言った。
(違う、そうじゃないんだ)
私は言葉を飲み込んだ。
「わたし、帰ります」
彼女の言葉は再び敬語に戻っていた。
彼女が帰っていく後ろ姿を見た私は、それまで彼女と積み上げてきたお互いを丁度良く求める関係を懐かしんだ。
眠れないまま独りの夜を迎え、懐かしむ感情が通過すると間もなく深い喪失感が現れた。
喪失感と向き合いながら何としても彼女への思いを断ち切ることを決めた私は、その最良の方法として自身の感情と対峙した。
上手くいけば喪失感を経て怒りが現れ、許しが怒りを薄め、やがて無関心が訪れるだろう。
その感情は解像度高く見つめようとする程にぼやけて映り、私は未だ彼女への想いを断ち切る術を探している。