失うことを受け入れること
「しょうがないよね」が香織の口癖だった。
香織はいつからか欲しいものを積極的に手に入れることよりも、今あるものを失わないことに意識を費やすようになっていた。そしてその意識の少し奥には今手にしているものも、いずれこぼれ落ち失うことが予め記されていた。
今ある物で十分、これ以上欲しいものなんて何もない、と自らに言い聞かして過ぎ去る日々の生活を半ば無関心に眺めていた。
幼い頃から本と音楽に囲まれ1人で過ごすことが多かった香織は、それを寂しいと感じることなく、いつからか心穏やかに寄り添うことが出来るのは、家族や恋人よりも音楽や小説の世界だと信じるようになっていた。
言い換えれば香織は友情や愛情のような移ろいやすい感情よりも、物語や音楽に秘められた普遍的な世界の力を頼りにして生きていた。
中学生になると香織は、古典作品の小説世界から当時の町並みの風景や匂いを感じたり、主人公の心情の変化に共感しながらその成長を喜ぶことが出来るようになった。
あるいは古いレコードから流れるクラシックのメロディや、ジャズのスイング、ロックのビートを聴けば、心のリズムが共鳴して音調に合わせて踊ることも出来た。
そうして香織は本に書かれた文字の連なりや、奏でられるメロディの流れを素に自らの内側に立体的に世界を立ち上げ、それを味わうことで日々の現実生活に歩調を合わせていた。
例えば香織はカズオ・イシグロの「日の名残り」を読みながら、ダーリントン卿の執事であるスティーブンスが語る偉大な執事についての考えに思いを巡らせた。
「偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に
常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。
外部の出来事には―それがどれほど意外でも、恐ろしくても、
腹立たしくても―動じません。
偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。」
香織は毎晩眠りにつく前に「日の名残り」の61ページを開き、小さな声で朗読した。
執事の語りを朗読して眠りにつくと、夢の中には決まって執事が現れた。
夢は終わりを告げて香織は目を覚ました。その肌には夢で感じた紅茶の熱が保たれ、香織を内側から温めていた。
その夜から執事は香織の夢に現れることはなかった。
それは香織の心が初めて味わった淡い喪失だった。
香織は静かに喪失を受け入れ「日の名残り」を本棚の奥にしまい、次に自身の中へ取り入れる世界を探し始めた。
「私は執事の不在を受け入れ生きていく。今まで見てきた世界とこれから目にする世界は私にとって全く異なる景色として映る」
ノートに書き留めた言葉を声に出して読むと、香織は新たな世界へと歩み始めた。
それ以来「しょうがないよね」が現実世界での口癖となり、香織はその口癖を自らの声で聞き続けた。