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江戸時代にタイ(アユタヤ王朝)宗主権下のリゴール国王になった日本人【前編】

1590年(天正18年)頃、山田長政は駿河国の駿府(現在の静岡市)に生まれました。少年時代は学問を好み、臨済寺で兵学を学んだといいます。
1607年(慶長12年)頃には沼津藩主、大久保治右衛門忠佐の六尺(駕籠かき)をしていました。六尺は大名に仕える専属の籠担ぎです。
六尺(約180cm)という名は担ぎ手の身の丈に由来し、長政が堂々たる体躯の人物であったことが推せられます。

1607年(慶長12年)は徳川家康が大御所として駿府城に在城するようになった年です。これをきっかけに駿府は一挙に活気づきました。
家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した後、朱印船制度を定めて海外との交易を奨励していました。外交政策の中枢が駿府に置かれ、朱印状は駿府城から発行されました。城下には海外雄飛の気運が高まり、駿府の豪商たちも朱印船貿易に関わっていきます。豊臣から徳川へと、時代が大きく回転するその中心が駿府にあり、少年から青年時代にかけての長政は、そうした空気を肌に感じていたと察せられます。
1612年(慶長17年)頃、駿府の商人、滝佐右衛門・太田治右衛門が船主の貿易船に長政も便乗し、台湾を経由してシャム(現在のタイ)に渡りました。

この頃のシャムは、アユタヤに国都を置くアユタヤ王朝の時代です。
アユタヤは、チャオプラヤー川と数多くの支流を通じてもたらされるタイ内陸からの物流と、タイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点にあるという地の利を生かして、古くから交易が盛んな豊かな国でした。
17世紀のはじめまでには、アユタヤ市の南東に各国からやってきた外国人達の集まる外国人町ができ、日本人も自分たちの町を作っていました。
日本の朱印船貿易が盛んになる一方で、豊臣残党の浪人や、すでに弾圧が始まりつつあったキリシタンたちも密かに国外へと脱出しており、アユタヤ郊外の日本人町は最盛期には3000人とも8000人ともいわれる邦人が在住していました。

アユタヤでは多数の日本人がソンタム国王の護衛兵を勤めていました。
長政は王の傭兵として日本人義勇軍を指揮し、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍しました。
長政は軍事指揮者としてだけでなく、貿易商としても飛び抜けた才覚を発揮していきます。マラッカ(マレーシア)やバタビア(インドネシア)などにも商船を遣わして盛んに交易を行いました。
各国の仲買人たちが入り乱れてしのぎをけずる国際都市アユタヤで、長政はアユタヤ拠点の貿易を一手に引き受けます。
その勢いは当時世界最大の交易企業だった東インド会社を、勝算なしとしてアユタヤから撤退させてしまうほどでした。

1621年(元和7年)、長政はアユタヤ日本人町の頭領になります。
そしてこの年、かねてから対立していたオランダとポルトガルが交戦状態に入ります。オランダ艦隊がポルトガルの重要な拠点になっていたマカオを攻撃したことがきっかけでした。
ポルトガルはマニラに集結していたスペイン艦隊に応援を求めて同盟し、オランダを撃退。余勢をかってメナム川に侵入します。
このとき河口一帯を警備していた長政はただちに出動。日本兵を中核とするシャム兵の混成部隊を指揮してスペイン艦を強襲、火を放ち炎上させて撃退しました。

ソンタム王はこの年、二代将軍徳川秀忠に使節を送っています。国書には次のように書かれていました。

「数年来日本の商船絶えず、国王はこれを優遇すること国人にも過ぎ、王はさらに官吏に命じてこれが便宜を図らしめると共に、更に在留日本人の一人を抜擢してこれが頭領となし、位階第四階に叙した」(三木公平訳)

長政がアユタヤ王室の貴族に叙せられたという内容です。
ことほどさように日本人を重く用いている当国と大いに通商しましょうというたくみな外交でした。
また長政もこの機会を利用し、日本へ行く使節に伊藤久太夫という家来を加えて、書簡や献上物を老中土井利勝と本多正純に贈ります。
シャムと日本の国交・親善のため、そして幕府に自分の活躍と地位を認知させる意図がありました。

元々日本とシャム間の貿易はオランダが独占していました。長政の辣腕外交により、やがてオランダはシャム貿易からの撤退を余儀なくされたという説もあります。
長政が主導したシャムと日本との貿易はアユタヤ王室に莫大な利益をもたらし、王室財政にも大きく寄与しました。

しかしこの頃幕府は、海外に流れ出した日本人について日本人として認めないとする棄民の方針を立てていました。

【後編】に続きます。

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