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【小説】存在の有無に関する思案 トイレにて - フェノメノン・フェノメノロギー【日常】

本編

 駅のトイレを想像してみてほしい。トイレとは、一般的には狭い空間である。次に、自宅のトイレを想像してみてほしい。そこには窓があるだろうか。あなたの家のトイレは、中から外の様子が見えるだろうか。

 私は幼い頃からマンションに住んでおり、小学校から高校に至るまで、実家から通っていた。大学も実家から通うことができたため、幼少期からずっとこのマンションで暮らしていることになる。要するに、私はこの家のことをよく知っている。思い浮かべれば家のどの場所も鮮明に頭に浮かぶし、細かな書類などを除けば、何がどこにあるかもすぐに思い出せる。

 リビングの窓側にあるCDの列。玄関から続く廊下の左側に並べている、手塚治虫や藤子・F・不二雄の漫画集。トイレの右側に掛けてあるカレンダー。押し入れの上部のスペースにしまっている除湿道具。この他にも、置き場所を変えていない大抵のものはすぐに場所を言える。

 あなたはどうだろうか。あなたは、自分の家の中をどれほど鮮明に思い出せるだろうか。自分がいつも寝ている場所、自分がいつも食事をする場所を思い出せるだろうか。きっと思い出せるだろう。1ヶ月もあれば、自宅でなにかする時、その場所は大抵固定される。故に、何かをするときには、それをするための場所が頭の中に浮かぶ。そうやって過ごしていれば、いつの間にか大まかな家の構造は頭に思い浮かべることが出来るようになっているだろう。

ある日の深夜、私はトイレへと向かった。無論目的は用を足すためである。真っ暗な廊下へと出る。自室とトイレは近く、一方で廊下の照明は玄関とリビングの端にあるので、私は普段からこの暗さに慣れている。すぐ近くのドアを開ける。トイレの中に入ってトドアを閉じると、外の空間から隔絶される。

 私の家のトイレには窓が無い。これは、マンションの内側にトイレが設置されているからだ。図面で見れば、外側には面しておらず、かといって共用の廊下に面しているわけもない。ちょうど中間あたりの、廊下の真ん中ほどにトイレのドアがある。後ろは隣の部屋に面しており、故にどこにも窓をつけることはできない。換気扇はあり、だから窓が無いことを気にしたことはなかった。

 鍵を掛け、便座に座る。トイレにスマホを持ち込みはしないので、少しの暇を紛らわすためにカレンダーに目を向ける。しかし、無機質なカレンダーにはすぐに飽き、意識は自分の内面に向く。

 多くの考え事が浮かんでは消える。期限が明日に迫った課題に頭を悩ませたり、先程まで見ていたYouTubeの動画を思い出したりと、考え事は無数に浮かぶ。ふと、自室のドアを開けたままにしたことを思い出す。大きな音ではないが、私は普段から、自分の部屋のスピーカーで音楽を流している。ドアを閉めていれば外に音は漏れない。しかしドアを開けておくと、リビングまで音が聞こえてしまう。

 不味かったかもしれない。そう思い、衣服を整えながらドアノブに手をかける。その時、ある考えが頭によぎった。内側に向いていた意識が、ある一つの思いつきをする。「ドアの向こうには何も無いのではないか?」瞬間、私は動けなくなった。ドアノブを回すことができず、便座に座り直す。

 繰り返すが、私の家のトイレには窓が無い。だから、内側から外の状況がわからない。駅のトイレのように、上下に隙間があるということもない。ドアを閉めたなら、そこは完全に孤立した空間になる。外の景色が見えない。私はひどく不安になった。ドアノブを回す勇気が出ない。

 生まれてからほとんどの時間を過ごしたそこが、全くの未知であることに気づいてしまった。今、頭の中に想起する事はできる。隅々まで思い浮かべることができる。頭の中にはドアの向こうがある。ただ、私にはドアの向こうが見えていない。ほとんど聞こえてもいない。

 ドアを開けて、何も無かったらどうしよう。まるで心霊特集のテレビ番組を見た子供のような恐怖が思考の根底から湧き上がる。しかし、私は何かに恐れているのではない。何も無いことに恐れているのだ。何かがある事は否定することができる。幽心霊番組などフィクションの寄せ集めだと簡単にわかる。声が聞こえたこともないし、目に見えるわけもない。だから、幽霊の実在を怖がる事は意識がそれを否定することができる。しかし、無い事はどうだろう。

 今、私は外を見ていない。ほとんど聞いてもいない。知覚していない。検証ができない。一切が無くなっていることを、どうやって否定すればいいのだろうか。あり得ないと否定をする度により大きくなって出てくる。証明ができないからだ。トイレから出ることができない。怖くて仕方がない。

 しかし、ずっとトイレにいるわけにもいかない。どれだけ恐ろしくとも、このドアノブを回す以外に選択肢は無いのだ。手を伸ばす。深く握り込む。ゆっくりとでも、ノブを回そうと決意する。腕に力を入れる。ノブが目に見えた回転を始める。

 バンッ! という音がした。ドアの向こうから、深夜、いやたとえ日中でも起こり得ないような大きな音が、ドアの向こうから聞こえた。反射的にノブを回しきる。そのままドアを押す。

 そこには廊下があった。なんだ、あったじゃないか。目に見えてしまえば、それは何も恐ろしくはない。実在している。足は廊下の感覚を感じているし、暗い廊下が見えている。あんなに大きな音でも、ドアの向こうから聞こえてしまえば、それはドアの向こうが存在する証明だ。だからドアを押せたのだ。

 あんなに恐ろしかったドアの向こうは、今では欠片ほども恐ろしくない。トイレのドアを閉める。穏やかになった心で手を洗う。目は覚めてしまったが、今日はよく眠れる気がする。

 時刻は深夜、私は晴れやかな心で、ドアを開けて部屋へと戻った。


あとがき

 在るということよりも、無いということの方が恐ろしいと思います。空集合とはこの世界そのものだと考えます。感覚が作り出した世界は、虚構とよんで差し支えありません。そんな中で在ることに違和感を感じた時、改めて在ることを実感するのは途方もない幸福なのです。在ることの不自然さを忘れるほどに。
 また、本作品はフィクションです。殆どは実体験ですが、いくつかの嘘が含まれています。大きなところで言えば、私の家のドアノブは回すタイプでは無く、棒みたいなやつです。

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