銭湯、限りなく、生。
家から徒歩2分の場所に銭湯がある。
銭湯帰りは身体が芯からあたたまっているだろうから、
まだまださむい半袖を着て、いざ向かう。
木でできた靴箱の鍵は趣深く、何年の歴史があるのだろうと思いを馳せる。
白髪の素敵な髪をお団子にちょこんとまとめた番台さんがいて、大人料金の460円を手渡す。
無駄なことは言わず目の前のテレビに目を向け続けている番台さん、いい仕事ですね。
固定されたシャワー、一思いに蛇口を下ろすと
少し熱めのお湯が出る。いや、これは、かなり熱い。
銭湯の湯は熱い、これが渋さであり伝統だ。変わってくれるなよ、と願う。
家から持ってきたシャンプーとトリートメント、ボディーソープ。
いつもより心なしかワシャワシャと洗う。
いつもあまり目を向けない自分の身体を凝視しながら洗う。
「ふーん、そうですか。」と、こころの中で感想をぽつり。
タイルの柄に目を向ければ意外なまでに繊細な色使いで、こころがほどけた。
薄いむらさき色と薄いみどり色で描かれた小さな花のタイルはやけに可愛いらしかった。
男湯は違う花の絵なのだろうか、一生知ることのない答えは不思議と、こころをはずませた。
湯船に入る、やはり熱い。
ぬるま湯だと書いてある方から入ったというのに
あつめの湯と書いてある方と全く温度は変わらない。
愛おしいな、そうゆうところ。
何事も愛すべきは不完全である部分なんだ。
湯船に入って周りを見渡す、人生の先輩とも呼べるお姉様方の裸がうつる。
女性の体は何歳になっても神秘的で美しいな、と思う。
どんな変化でもその時にしか持ち得ない美しさがある。
身体はひとりひとりが生きてきた証だ、生きることは真っ直ぐに美しい。
ふと、向かいの鏡に、生の自分が、うつる。
濃い眉毛、色黒の肌、鼻はそんなに低くない、頬骨が出ていて、顎がない。
「あれ、結構自分の顔、好きかもな。」
そう思った。
誰かと比較してしまうと、やっぱり、どうしても、自分のことを受け止めきれない。
足りないところばかり見てしまうし、可愛いあの子との圧倒的な差に膝から崩れ落ちる日々だった。
比較対象のいないこの鏡の中で
限りなく生の自分と目があって
「悪くないよ。」と、こころの中で感想をぽつり。
私の後に湯船に入ったお婆ちゃんが「若くて綺麗ね」と話しかけてくれた。のぼせた顔が緩んだ。「すいません」と緩んだ顔を下げた。褒められた時や、ありがとうと言ってもらった時、なぜだかいつも「すいません」と謝ってしまうのは社会人になってからの癖だ。かれこれ4年の付き合いになる。
銭湯コミュニケーションを体感することができた感動に、しばらくの間ほだされていた。
湯船を少しでて涼む、ちょうど夕焼けが、背の高い窓ガラスから陽をさしていた。
夕焼け色に自分の身体が染まっていることに、また少し、こころは揺れた。
新しい下着を身につけて、帰り支度をして、まちに出る。
夕暮れの肌寒く穏やかな風が、半袖の選択を「正解っす」と教えてくれた。
いつかのアイドルが歌っていたさくらの歌を
自信のない小さな声で、口ずさんで帰った。