【6】労働をするか、仕事をするか。その差を分けるのは「教養」である #小原課題図書
第1週で読書の世界へ足を踏み入れ、第2週で読書の学びをより深める。第3週はライティングの基礎力をつけつつ、それを未来にどう活かしていくのかを考え始める。この頃から、より先々のことについて思考を巡らすことを示唆していたように思う。
第4週では先々のことを考えるための手法を学びつつ、他でもない自分の頭でそれをするのだということを知る。ここで、第3週で得た「仮説思考」の知識が自分の人生を生きるためにあることを知る。
そして先週は「いい仕事とは何か、いい仕事をするにはどうしたらいいのか」を学ぶ。自分の手で仕事を作り上げてきた一流のビジネスパーソンの生き方を読書によって追体験した。
そして、今週の読書はこちら。
「社会を知り、自分を相対化する」-読書で得た知識を主観的に取り込んだところで、一旦外の世界に目を向ける機会をいただきました。早速ログしていきます。
『日本3.0』
著者はNews Picks編集長の佐々木さん。佐々木さん曰く、明治維新(1.0)敗戦(2.0)に続く第三の「ガラガラポン」の到来によって国家体制が大きく変化するそう。新時代の日本の核を担う存在はミレニアル世代だと指摘し、海外の世情と比較しながら新時代のリーダーになる術を解説しています。
新時代の到来によってこれまでの当たり前は簡単に崩れ去る。その中で価値を発揮できるのは失敗を恐れずチャレンジすることを諦めない人だといいます。既存の価値尺度に縛られることなく、変化し続ける人だけがリーダーたる人間ということです。
第1〜3章で「日本3.0」までの至りや国家構造の変化を述べ、以降の章で他国と日本の差異を比較し、今後必要になるマインドセットやスキルを解説しています。
エリートを目指すのか、普通の人に落ち着くのか
第4章では「エリートを目指すのか、普通の人に落ち着くのか」という話題が語られます。本書の大半はエリートになる方法について語られていますが、誰しもがエリートになる必要はなく、普通の人として生きていく選択肢もあることも書かれています。
僕はどちらを選ぶことも間違いではないと思うし、むしろ普通に生きていくことの方が幸せなんじゃないかと思う。ただ一方で、普通を目指して普通に落ち着くことなんてないんじゃないかとも思います。
本の中で「AIによって仕事が奪われる」ことも言及されているように、今の普通は3年後の普通ではなくなる。想像している以上に近い未来でどんどん世の中が変わっていくのなら、発想を3年後、5年後、10年後に転換しながら普通を予測していかないと、結局普通以下の残念な人生を送るハメになってしまう。
ある種リーダーを目指さない人間は、結局のところ普通の人にもなれないのではないかと思うのです。
未来を予測しながら、どうあるべきか考え、行動する
自分の立場に置き換えるなら、これから職業を選ぶことや企業を選ぶこと、そのどれも既存の評価を判断基準にしていたらいけない。これから新しい価値を生み出していく職業・企業を選び、そこで自分も価値を最大限に生み出さなくてはいけない。自分がどうこうというのはもちろん、世の中の変化を捉えながら自分の立場や状況を組み立てていく必要があります。
未来を予測し、それに対する最善を導き、失敗を恐れず行動できる人だけが価値ある人間になれる。もちろんそこで結果を出す人がリーダーになる資格を持ちますが、たとえ失敗したところでその権利が絶たれることはないはず。むしろ失敗を恐れて行動できなかった人から、普通の人になる権利すら失っていくのではないでしょうか。
僕は「世界を変えたい」とは思っていませんが、少なくとも「普通の人でいいや」とは思っていません。常に昨日の自分を超えていけるようにありたいし、いわゆる当たり前に流されることなく、自分が正しいと思ったことに正直に行動できるような人でありたい。
自分の持つ気持ちを再認識できたのと同時に、それを実現するためには独りよがりの感情ではどうしようもなく、自分を社会の中の一人として捉えることが必要なのだと感じられた一冊でした。
『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブではない日々』
天才と呼ばれる過去の偉人たちが、どのように毎日を過ごしていたかを綴った一冊。個人的にめちゃめちゃ面白かったです。
タイトルにもあるように、天才たち必ずしも天才的な毎日を送っているわけではありません。むしろ「堕落している」と表現した方が正しいような私生活の人たちが非常に多かった。
ただ偉人たちに共通していたのは、なんにせよ習慣を持っているということ。その習慣はそれぞれ違うにせよ、彼らは「自分が最大限にパフォーマンスを発揮できる習慣」を持っています。
ベンジャミン・フランクリンの「積み重ねる習慣」
ベンジャミン・フランクリンは、毎週一つの徳を達成することに専念していたそう。もし仮にその特に反することをした場合はカレンダーに記入していく。そうやって徳を積み重ねて習慣を作り上げたそうです。
僕はあれもこれも何にでも手を出した挙句、何も手に残らず、すべてを中途半端に終わらせてしまうことが多い。彼に習うなら、まずは一つのことに専念してそれを習慣に落とし込むことが必要だと感じました。最近こればっかり行ってる割に全然できてないな…。
ジョン・アダムズの「切り替える習慣」
本書の中で彼は、自分が特別クリエイティビティー溢れるような生活を送っていないということを述べた上で、以上にように発言しています。
自分の中で「いい仕事をする」ためのパターンをしっかり確立しているから、労働時間に結果が左右されない。むしろ作り上げた習慣を壊すことが悪であるということになります。
自分を知り、自分をマネジメントする
少し話が飛びますが、武井壮さんが「自分の体を思い通りに動かせるようになることから始めた」というようなことをおっしゃっていました。きっと天才たちは自分がパフォーマンスを発揮できる習慣(たとえそれが常識を逸していても)を知っていて、それを確実に遂行する力があるのでしょう。
もちろん天賦の才に恵まれていることはまちがいないのでしょうが、習慣によって天才は天才たりえているのかもしれません。意志の力で成し遂げるのではなく、当たり前にパフォーマンスを発揮するから「天才」なのだと思います。
『初めての編集』
今週最後の一冊は菅付雅信さんの『初めての編集』。本書によると「編集とは『誰かに、何かを、魅力的に伝える』という目的を持った行為」であり、故に「人は常に『人生を編集している』」のだそう。食べるものを選ぶことも、着る服を選ぶことも、全てが編集。つまり編集という行為は誰しもが日常的にしているものだということになります。編集の定義はなかなか曖昧だと思っていたのですが、文字で説明すると意外にあっさり。
書くことは人の仕事だが、編集は神の仕事だ
ただ本書を読み進めていくうちに、『エッセンシャル思考』に書かれている「書くことは人の仕事だが、編集は神の仕事だ」というアメリカの小説家スティーヴン・キングの言葉を思い出しました。
誰もが日常的に編集をしているからこそ、それによってお金を得るということは非常に高尚な仕事で、一言では語りきれないほどに深い。ある種人が編集したものに手を加えるのだから、「編集者」とは高度な専門職であり、気軽に編集者を名乗るのは怖いことに感じました。
編集は、教養を持つ人だけに許される
本書に引用されている「なにかを『書く』ために、もっとも必要としているのは『読む』能力だということなのです」という言葉が表すように、人の仕事に手を加えるにはそれよりも高度な仕事が必然的に求められる。誰かに何かをより魅力的にして伝えるのだから、さらに高い視座にいる必要がある。
おそらくそれを可能にするのは「教養」なのだと思います。編集とは読んで字のごとく「編んで集める」こと。単一のプロダクトをその範疇で磨くのではなく、より広い視点で見つめ直し昇華させる必要があります。きっとそれを可能にするのは幅広い知識であり、本質を見抜く視点であり、誰もが持っているような日常を編むような力とは違う。
冒頭で「意外とあっさりしているな」と感じたのと裏腹に、読み進めるごとに編集の定義を失ってしまいました。ただやはり、人に何かを提供するにはそれ相応の知識や技術、人間性が求められるのは間違いなさそう。
ぼんやりとしてしまい、あまり自分の言葉に訳せていないことも多いので、来週もう一回読んでみようと思います。
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まとめを書いたところで、ジュンヤさんのツイート思い出しました。
曖昧な表現で申し訳ないのですが、労働としての「働く」ではなく、仕事として「働く」ことをするには常に学び続ける必要があるのではないでしょうか。社会の中で自分は今何をすることができて、今後は何をできるようにならなくてはいけなくて、そのために何をしなくてはいけないのか。それを常に考え続けない限り、仕事を作ることはできない。その思考は教養とも言い換えられる。そんな気がします。