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しない、やらない、を選ぶ

こんにちは。

良いお天気。ここ3週間ほどで息子たちはずいぶんお留守に慣れた。

成長が重なるにつれて出来ることが一つずつ増えてくるのは喜ばしい。
同時に自我の確立準備期に入った今、好き嫌いや出来る出来ないでは無く『しない』『やらない』が増えた。

今まで出来たこと、年齢相応にできそうなことを『しない』『やらない』と言うことは親や世間に対して結構ネガティヴな反応を得やすいな、とより強く感じるのは子どもが就学してから。

私も正社員時期の子どもの反応には物理的な時間の調整に困難を感じることはたくさんあったけれど。

自分の意志があって良いね、と思う

私からすると『他人から言われたことを疑問に思わず従順に行動に移せる』のは大人だろうが子どもだろうが恐いという感覚がある

私は親がうるさ過ぎて黙って言うことを聞く時期もあったけれど、うるさく言う存在が不在だとやらないどころか、やれない自分に気づいて管理されることと強制されることのデメリットも体感した

そんな経緯もあり、息子たちが放課後学級に行かない、と自分たちで選択した
そして親の不在時に留守番をする経験をした
#初めましてを私から 参照

ええ?まだ小さいのに留守番心配じゃ無い?と声もかけられた

心配がないわけじゃ無い

でも何でも初めては心配で手探りで、その繰り返しの先に安心があるんじゃないの

鍵を紛失したり
弟が兄の帰宅を待てずに隣家に遊びに行き、兄は弟を探し回ったり
兄弟間の伝言の大切さを知ったり
知らされない状態だと自分の次の行動に移れない不自由さを覚えたり

夕食の時にその日の冒険話と次回の対策を息子たちから聞く時間がすごく楽しい

子どもたちなりに、親以外に、ご近所さんに頼ったり、御礼も挨拶もする機会が増えている模様

ほんの2年前、長男は集団登校ができなくなった時期がある
私は仕事を変えて半年ばかりの頃で、早番のシフトに間に合わない現状に長男にただならぬプレッシャーをかけていた
親子でポキっと折れた時、両親に、夫に、次男に、職場に、学校に、理解と協力を得て、何とか乗り越えつつある

乗り越えているのは
出来ないことを出来るようにする、でもなく
やりたくないことをやるようにする、でもなく
せねばならないことをするようにする、でもなく

やる、やらない、を自分の意志で選択し
それに付随する説明や交渉や準備を自ら整えようとすること、その継続である

だから今の長男は
学校に行きたいから、途中まで付いてきて、と私に毎朝依頼している

そして時折休む
昔は休む度に、周りと同じように出来ないことに息子は泣いていたけれど

私は不登園も不登校もしていたから、ああそうなの?くらいで、息子とお買い物をしたり、掃除をしたり、ご飯を作ったり、お菓子を作ったりしていた
金勘定ができて、家事炊事掃除が出来ればまぁ後は何とかなるし、と
実際、私は母の内職のチラシ折りをしたり、お使いに行ったりしていた

今は休むと、今充電中なんだ!と息子は笑う
そして私も仕事を調整してもらったり
夫に代わってもらったり
両親にヘルプしてもらったり
たくさん助けてもらっている

これをしないと、こんな風になるよ、と何かを強制するのはただの脅しであり
そんなこと言われたら気にしなくて良い、と思う

しまった!やっておけば良かった!が先回りされて経験出来ない人生が幸せだと信じて、失敗や泣き言を減らす手伝いを私はきっと長くしていたんだ

一緒に泣いて、励ましあって、いつのまにか笑い飛ばせてたらいいんじゃないの

成功体験ってお金で買えるけど、失敗体験ってお金で買えないんだよ

今日も息子たちはお留守番
今日の冒険は、友達と約束をして出かけるなら、おうちのお手伝いに来てくれるおばあちゃん宛に伝言メモを残すこと
いつ、どこに、誰と出かけて、何時までに戻るか、を自分で出来るかな

ひょっとしたらそのやりとりそのものが面倒で約束してこないかな?

伝言メモ、忘れたって帰ってこればそれで大丈夫なんだけどね

うっかり伝言を残し忘れて、中学から帰宅したら警察に電話しようとしている瞬間の両親に遭遇した私は恥ずかしかったのをすごく覚えていて、長男にその話をしたら笑っていた

キッズケータイひとつ持たせれば済むことだって思ったりするんだけど、この不自由さ不便さも伝えたい

さぁ今日を始めよう