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かけがえのない存在
こんにちは。
今月は長男の学芸会だった。小学校に入ったばかりの1年生の時は元気よく舞台に立って演技をしていたのが懐かしい。
長男は、私を初めてママにしてくれた愛おしい存在。
彼はたくさんの贈り物持って私の元にやってきた。
彼の持つ特性を大変だねと言う人がいる。それに付き合う私を大変だねと言う人がいる。そんな私と家族になった夫を大変だねと言う人がいる。そんな家族の一員である次男を可哀想だねと言う人がいる。
それでも私は、それでも私は。
大変だなんて思ってない!!!!可哀想なんて言われたくない!!!!
人間は死ぬまで発達を遂げる。退化だって加齢による発達だ。年齢を重ねてできるようになる発達とできないようになる発達がある。何かをできるようになるのは体の発達である。何かができないようになるのは心の発達である。何かを習得するのは発達であり、何かを喪失するのもまた発達である。その逆も然り。
長男は大集団の中で感覚過敏があり、集中力が分散したり、見通しがつかない事態に混乱を起こしやすい。従って習慣性の少ない学校行事は混乱が多く、なかなか慣れることができない。
長男はこれまでの人生の中で自分のことを表現することを身に付けた。自分の話したいことを話し、それを人に伝えることができるようになった。同時に彼は人前に立つ気恥ずかしさを覚えた。緊張を覚えた。出来た事が出来ないようになり、出来なかった事ができるようにもなった。
自分以外の人間が何かに向かって努力をする姿を理解できるようになった。そこにどんなに携わりたかったとしても、周囲と同じように同じスピードで関わることができない今の自分に苦しみながらも、彼は彼のできることを探した。そしてそんな自分を彼は誇りに思って認めた。私たち家族にはそれで十分。
この3ヶ月、私たち家族は本当によくやったと思う。私たちは抱える課題や困難に対して家族で閉じこもらず、互いの思いを打ち明け合い、それを否定せず尊重し、必要な外部にそれを相談し、その時できることの最善を尽くし、その結果を嘆くことなく受け止めた。大切なのは、やりたいことに向かって最大限の努力をするプロセスであって、目の前に見える風景と結果が全てとし如何なるプロセスも責めない、特定の人物のせいだと思い込まないこと。そのために必要なのは私たち家族のゴールを明確にして、それを協力者に伝えて理解してもらう事。私たち家族へそれぞれの立場で支援をして貰えるように相手の状況や感情を確認し気遣い理解しながら不明瞭な事は質問(前提や決めつけのない謙虚な問い)を根気よく伝え続けて、共に共通のゴールを目指す事。
前置きがずいぶん長くなったけれど、結論として今回の学芸会に長男は舞台に出てこなかった。長くて短い期間の練習の中でずいぶん葛藤し、そのギリギリの瞬間まで舞台の上に出ようと尽くした本人と指導してくれた先生方と見守ってくれたクラスメイトと協力してくださった学校がある。
タイトな練習時間の中で、合間を縫って報告の電話を下さった、担任の先生。
次男のように家で目立って練習する事は無かったけれど、静かに台本を読み、衣装の準備をし、学芸会を楽しみにし、私にどんな脚本かを聞かせてくれる。
心の端で、もしかしたらと言う期待があった。保育園の頃は1度も練習しなかった運動会も学芸会も、当日本番になればビシッとやり切った長男の姿が記憶にある。大勢のクラスメイトの中で練習に取り組むことができず、個別に練習を組んでもらったり、クラスメイトの練習する姿を見学し観察し応援し自分の中で少しずつイメージを膨らませて当日に臨んでいたのは小学校に入る前のこと。今回もひょっとしたらそうかもしれない。私は事あるごとにずっと長男に行こう伝えていた。
『あなたがどんな選択をしても私はあなたの味方だよ。それを周りの人がどう言ったとしても私はあなたの選択を応援する。だからまずは自分の選択を自信を持って応援してね。』
そう言った手前、長男が学芸会に出なかったことを悲しんではいけない、と私は思い込んだ。でも私はものすごく寂しかった。気落ちする中で私の何がいけなかったんだろうと自分を責めかけた。それを自分の母に電話で話した。息子が学芸会から帰ってくるそのわずかな間に、息子と同じように学芸会に出ることが怖くて、不登園で不登校だった自分の話をした。
お母さん、私は学校生活の中でできないことばかりだったけれど、私はそんな自分も大事にしたい。お母さんはいつもがっかりした顔をしていてそれを見るのが辛かったから、私はその顔を息子に向けたくない。それなのに私は今とてつもなく悲しい。私はとても苦しみながら自分に無理をさせて学芸会に出たのを覚えている。だから、無理をせず自分を大切にした彼を笑顔で迎えたい。矛盾する感情をどうしたらいいの、助けてお母さん。
母はポツリと言った。長男の演技を見たかったよね。寂しかったよね。そう感じるのはダメな事じゃないんだよ。
私が息子を受け止めようとしたのと同じように、母が私を受け止めてくれた。あの頃、あなたの感覚を何もわからず、何も知らず、みんなと同じようにできるようにありとあらゆる準備を尽くしてあなたを苦しませてゴメンねと何も言わずに信頼をして見守る優しさがあるねと話してくれた。私の冷たく固まっていた気持ちが30年ぶりに溶けた。母にありがとうと言えた。
そうして、私は帰宅する息子たちを笑顔で迎えることができた。
今日の学芸会がんばったね。
そう一言声をかけた。
うん、僕ね、舞台袖でみんなと一緒に歌ってたんだよ
そっか、そこにいたんだね。みんなと一緒に学芸会をやれたね
長男と話したのはそれだけ。
長男は終始落ち着いていて笑顔だった。その後は元気いっぱいに学芸会をやり切った次男の話をみんなでした。ほんの少し表現の仕方が違っただけだ。私はこのときの家族の時間をとても大切に思う。自分と違う表現方法を選択した兄弟。それをただ淡々と話して、互いに認め合い、褒め合えたこの時間はかけがえのない時間。
後日、担任の先生にお礼の手紙を書いた。ご多忙の中、根気よくご指導に当たってくださりありがとうございます。と。
学芸会の練習中も、終わった後も、私の考えは変わらなかった。たとえ当日舞台の上に息子の姿が見えなかったとしてもその舞台の上に出ようとしてクラスメイトと一緒に1つのものを作り上げようと取り組み続けるその過程の積み重ねこそが彼の成長に繋がるのだから。舞台に彼の姿が見えなくても彼なりの方法でその世界に在ろうとした。いつかは舞台の上に立つかもしれない、立たないかもしれない。目に見える場所に彼はいない。それを誰も責めずに受け止めてくれて私は感謝の気持ちしかない、と。
先生から返礼の電話を頂いた。
来賓で出席した夫と先生も学芸会の日に話していたらしい。
『長男は、あそこ(舞台袖)にいるんですね』
夫がそう先生に告げたと聞いて、私は思わず泣いてしまった。
舞台に出てくる児童たちが皆舞台袖を気にしながら登場してくる。そこには長男がいるんだ思えた、と夫が後から教えてくれた。気にかけてくれるクラスメイトがいた。長男は自身の登場に備えて下手から上手への移動も舞台裏で頑張っていた。最後まで登場しようとしていた。普段から安心して信頼関係の強い担任の先生。先生には当日役割がたくさんあって傍にはいられなかった。サポート体制は離れていても先生とアイコンタクトを取りながら励ましあっていたと聞いた。
先生にも悔しさ寂しさがあり、素直に話してくれた。私たちは一緒に泣いた。指導者と保護者。立場は違えど、息子を持つ親同士、そして誰よりも傍で長男を見守り、応援し続けてくれたのは担任の先生をはじめ、全学校の先生方だ。今回の経験は私たち親子にとって貴重な学びの機会となりました。先生のご尽力にも、クラスメイトの子たちの優しさにも心から感謝します。混乱せずに、長男は日常に合流しています。彼は参加した、やりきったって思えているんです!良き思い出に出来ていることは、未来に取り組む力になります、と。
さらに後日、夫と話す機会を持った。
舞台に出る長男は見たかったね。でも作品を作るって本来は目に見えるところにいる人はほんの一握りだよね、と。
映画やドラマに出てくる人が全員主演でもない。画面に映らないエキストラも、カットされる音も、全て完成品に必要な欠片だ。
昔は児童数も多かったり、個人特性に対してもおおらかだったのかもしれないね、という話をした。
舞台装置を運ぶ人、木の役、石の役などでセリフがないこと、裏方の演出など役割はたくさんあったはずなのだ。皆一様な役割ではなくて自分の強みを活かした役割が。
学芸会はいつの間にか保護者に見せる為の行事になっているのかもしれない。どうしてウチの子のセリフは短いの?なんであの子だけが?そんなドラマみたいな展開も耳にする。株主総会じゃないんだからwと笑っちゃう。
我が家の場合は
むしろセリフなくしてあげて(笑)
って感じだけれど
家庭ごとに理想はあるものね
その子がやりたい事がやりたいようにできるきっかけとなる経験になるといいな、とただただ願うばかり
やりたい事はトレーニングするしかないから
結果に一喜一憂せずに、次に進もうと思える勇気を身に付けていけばいい
次男もお兄ちゃんの登場を心待ちにしていてガッカリしていた。お兄ちゃん大好きだから見たかった!と伝えていた。その気持ちも真っ直ぐでいいね!
長男は観劇を楽しみ、弟の演目を喜び、そんな2人のやりとりを私たち夫婦はホッとして見守る。
そして私はグッタリ(笑)
なけなしの今の自分に出来ることを総動員!!!!したら身体中から悲鳴が上がってきた!!!!動悸と、頭痛と、耳鳴り〜〜!!!!ひー!!!!
このnoteの文面もなかなか文言にならなくて言語化の出来なさにモヤモヤして何もかもがうまくいかないweekに突入してダメだ消えたい何もできん!無理!!!!と友達に会いに行ったら大層ひどい顔をしていたみたいで
何もせずにしばらく休も?
このままだと死ぬよ?
って言われて素直にひたすら寝た
夜ご飯は外食を頼り、朝の長男の登校付き添いも朝ごはんも洗濯もごみ捨ても全て夫任せ
仕事も身なりも最低限のことだけにして
命の安全を最優先
自分を大切にすると言葉って出てくるのね
感情を外に出せなくなったら休めのサインってことだね
いつも自分の思考整理の一環でnoteを書き留めている
今回ほど自分のため、主観でしかないnoteはなかなか恥ずかしさがあるけれどアップします
『そんなの誰にでも出来て当たり前って言われがちな事が当たり前にできること』と『そんなの誰にでも出来て当たり前って言われたって当たり前に出来ないこと』
どちらに今あっても大丈夫
あなたがかけがえのない素敵なあなたであることに変わりはないと自身で思えることを伝えられる人間で私はいたい
大事なのはまずやってみることだから
それを積み重ねることだから
弱音を吐いてもいい
自分を根拠なくうんと好きでいて
強かに生きよう
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