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【2025.01】150年

  • 150年。

  • 東池袋の取り壊し予定の集合住宅で始まった奇妙なアートイベント。

  • Xで話題になり、連日大賑わいだ。

  • 仕事を早引けして行ってきました。上司もまさか部下の「私用」が廃墟探索だとは思うまい。

予約して行ったけど、回転率が悪くてなかなか進まない。
  • 18時に行った。並んでいると、「すみません17時の予約なんですけど、入れますか」と聞いている人がいた。「ダメです」と言われていた。こういうイベントにしてはかなりシビアだ。

  • 全部の服をラフォーレ原宿で調達していそうな、サブカル地雷系カップルみたいなのがかなりいた。

  • 入るときには誓約書を書かされる。怪我したり服汚れても知らないよ、というやつだ。実際、内部はかなり汚い。でもうちの会社の倉庫よりは全然きれいだったので耐えられた。

  • 説明を受けて中に入ると、6つの建物のあちらこちらにアートが点在している。

  • めちゃくちゃ普通の民家の部屋の中に真っ白なブロックと鳥。

  • 窓には大量の洗濯物がかかっている。

  • 入り口で配られた紙には作品の解説が書かれている。鳥が風を読むこと、人が今日は晴れるだろうと考えて洗濯物を干すこと、それは少し先の未来へと目を向けることである。その先に150年という時間がある、とまぁこういう感じのコンセプトらしい。

  • 洗濯物の中にパンツとかはなく、そういうノイズになるふざけ方はしないんだな、と変な感心の仕方をした。

  • 階段を上ると、地面からなんか生えていた。

全員がちょっと男性器を想像したと思うが、さすがに違うと思う。
  • これすごいのは、オブジェの中を紫色のインクがゆっくりと滴っている。人工の鍾乳洞のようなシステムが形作られている。150年かけてこの毒々しい紫色の化学物質は立ち現れたのかも知れない。

  • ほっそい階段を使って屋上にも上れる。

  • 屋上のすぐ外には高速道路が通っていて、高速道路を向いた液晶画面が聳え立っている。何が映されているのかはこちらからは見えない。

銀色の四角い物体が液晶の裏側。女子大生が鏡として自撮りに使っていた。
  • この展覧会、150年という月日そのものよりも、150年という月日の行く末を想像する営みにフォーカスしている気がする。自己の中にある150年の未来像を呼び起こそうとするも、そこに確かにあるはずなのにどうにも出力できない。そんなもどかしさや不可解さを観客に疑似的に体験させようとしている作品が多い気がする。つまるところ150年の内面化だ。

  • この「見れない画面」、どうやら高速道路から会場ビルを捉えた映像が映っているらしい。高速道路を走る車からすれば、自分たちの視覚が外部ディスプレイに出力されているように感じるだろう。

  • 本当はきぬた歯科の広告とかが流れていたらどうしよう。

  • 屋上からは東京の街並みが一望できるので、みんな写真を撮っていた。私も撮った。

  • おわかりいただけただろうか。

  • 屋根の上に、誰かいるのだ。

  • これ、マジで最初はヤバい近隣住民だと思ってしまった。冬の寒空の下、おてて繋いで遠くを見てる連中がまともなわけがない。

  • しかし、この展覧会を見て回ると分かる。

  • 作品なのだ。

  • これ本当にすごい。だって外6°Cとかですよ!?

  • しかもずっと二人で何かを喋っている。夜空を見上げることと悠久の時間は何かと結び付けられがちだが、ここまで体を張られると説得力が違う。

  • これはビカビカ光る空間でスモークを焚き、「記録すること」を邪魔するコンセプトの作品。この手の展覧会がある種映えスポットとしてサブカルの文脈に消費されることをコンセプトに内包し、シニカルな視点で見つめている。実際、この作品を写真に撮るたびに違った色で映る。写真記録の一貫性が破綻するのだ。

ポリゴンショックどころの騒ぎではない光り方だった
  • 部屋中が青みが買った灰色に塗られている空間もあった。ところどころに蝶や爬虫類のような生き物のレリーフが飾られている。蝶の大きな目玉模様は”擬態する視線”の存在を感じさせ、日常生活が何の根拠もない薄氷の上に成立しているのではないかというような不安を呼び起こす。

  • ほんとうにめちゃくちゃ作品があるので全部は紹介しきれない。

  • で、実は最初に「地下室の作品を鑑賞できるのは抽選で当選した人のみです。抽選結果は出口でお知らせします。」と伝えられる。

  • 詳しくは言わないが、入口で貰った紙を使って、抽選が行われる。


  • ええ。ハズレでした。


  • ちょっとこれ、どうなのとは思う。6棟の建物には細い点滴チューブが張り巡らされていて、それが地下室の作品に繋がっているらしい。いわばこの展示会の心臓、肝だ。

  • それを見せてもらえないというのは、そもそもこの展示会において150年という月日に思いを馳せる土俵にすら立てないような感覚がある。無料の展示会ならいざ知らず、普通に1400円するのだ。

  • まぁ、地下室が狭くてオペレーションが大変なんでしょう。でもさすがに映像で見せるとか、そういう補填策はあってもいいんじゃないのと思ってしまう。あれだけの作品群が、出口での一つの欠落によって消化不良で終わるのは、展覧会としてよろしくない。

  • もしかしたら地下室の作品のコンセプトに限定的とかリアルとかいう概念が含まれており、敢えての抽選なのかも知れませんが…

暗闇になぜかサボテンがいた
  • 最後に。この展示会の本当の体験価値を述べておく。

  • それは、”他人の生活圏に土足で侵入すること”である。先日まで人が住んでいた家にアートをぶち込んでいるので、当然あちらこちらに生活の痕跡が残されている。

建物じゅうのカーテンなどの布を編んだ作品
  • ここを土足で踏みしめる。この違和感。背徳感。

  • そしてそこに次々と現れる奇妙な物体たち。日常の中に違和感が侵入してくる。この日常のリアリティは本物にしかだせない。

  • そして、展覧会を後にして帰路につく。

  • 土足で踏みしめる駅の床。見慣れた日常の景色。

  • その全てが奇妙に見える。

  • 私に150年を想起させることを強いているように見える。


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