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真実は、事実と嘘の間にある
小学校の作文の授業では、先生から「文章の最後はきれいにまとめましょう」と習います。
大人になって社会に出ると、上司から「この文書の主旨はなんだ?」と、わかりやすく結論を明示するよう、詰められたことがある方もいらっしゃることと思います。
一方で作家さんたちの中で文章は「できれば突然終わらせること」をおすすめしています。
Twitterである男性が、学生時代に海外でホームステイした時のエピソードを文章にして、その文章の添削を受けたエピソードを漫画で紹介していました。
彼は文章のラストを「異国の土地で出会った友人に、いつかまた会いにいきたい」ときれいにまとめたところ、先生から「君、本当にこの友人に会いにいくの?そこに嘘はないかい?」と、きれいにまとめるくらいなら途中で終わった方がリアルだと指摘されるシーンがありました。
よかれと思って私たちは文章の最後を美しくまとめようとしてしまうのですが、実際に人生は言葉に出来ないことの方が多く、人の一生という大きすぎるものをまとめることは出来ないと思っていた方が、書く上ではよいと思います。
要約することで、どうしてもそこに誰かの想いを取り残してしまい、そこに読者は嘘を感じます。文章に隠した嘘はどんなに書き手がうまくごまかしたつもりでも、読者は無意識のうちに感じ取ってしまうのでしょう。
しかし矛盾するかもしれませんが、私は文章で嘘の一切を否定するつもりはありません。
以前、私は父がガンになって病院まで見送った日のエッセイを書きました。
その作品の後半に「厚い雲を覆う空から、あたたかい陽ざしが差すのが見えた」と書いたのですが、実際にはその日はどんよりと薄暗い、何ならしとしと雨も降ってる天気でした。この先、親の状態がどうなるかわからない時に「暗い天気だった」と書くのに強い抵抗があったのです。
つまり嘘を書いた作品を世に出したわけですが、このことをのちに文章の先生に懺悔したとき「でも小澤さんには見えたんじゃないですか。陽ざしが」と言ってもらい、少しだけ罪悪感から解放されたのと、必ずしも嘘と真実は分けられるものではないことを知りました。
優れたエッセイは嘘3:事実7、小説は虚構7:事実3の割合と言われていますが、現実には嘘と事実は明確に分けられるものではなくマーブルクッキーのように入り混じっていて、嘘と事実の間に光っている真実をすくいとるように描くというのが、エッセイでも小説でも書き手に求められる力なのだろうと思います。
おもしろくしてやろうとか、バズってやろうとか、そういった書き手の虚栄心を満たすための嘘は読者に一瞬で伝わりますが、本当の嘘を吐く力は読者を魅了するような気がしています。
私もまだまだこの筋力が足りないので、精進します!
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