見出し画像

まるで長年連れ添った夫を粗略に扱うように

ボーッと作業をしていたある日、愛用しているMacBook13インチにお茶をかけてしまったことがあった。

スピーカーの穴が空いてるところに盛大にお茶をこぼしてしまい、それを拭うように拭けばいいものを、パニックになっていたのか刷り込むように拭いてしまった。MacBookからしたら傷口に塩を刷り込まれるような行為である。今も反乱(故障)がないかとビクビクしている。

コードレスで作業できるのがいいなと気になっていたMacBookをお迎えしたのは、2年と半年ほど前のこと。
当時は12万程度だったので「まあいつか買えたら」と呑気に構えていたところ、円安が続き17万、18万、このまま行くと20万になってしまうのではという時に「家電量販店ならまだ原価で買えるよ」と神の一報を聞き、ヨドバシへ走ったのだった。

それまではWindowsだったので操作に慣れるか不安であったが、次第に中指と薬指でのスクロールも、電源を入れた時の「ジャーン!」という音にも慣れていった。
ちょうどその頃から文章教室を始めて、講座で使うスライドや資料は全てこのMacの中にある。実家にもパソコンはあるが、壊れてしまったら一大事どころではない。

出来心で新しいMacBookの値段を調べてみる。今度は大きい画面のやつが欲しいなと新商品を見てみた。20万で分割払いもしているのか、と品定め。長年支えてくれたパートナーを見捨てて新しい男に走るようで心苦しくなって、MacBookのサイトを閉じた。

思えば新しいものをお迎えする時、最初は汚れがつかないか、傷がつかないかなど神経質になっている。しかしだんだん使用の月日を重ねるごとに、扱いは雑に。ずっと大切にモノを使える人が羨ましい。
結婚当初は優しくできたけど、だんだん夫をいい加減に扱ってホストクラブに行っては「ありゃもうダメな男だよガハハ」と笑う鬼嫁のようだ。

しかし先日NLPの講座へアシスタントに行った時「新しいものに最初ほど感動を覚えない=それだけ自分の無意識の中に定着化している」ということを習った。

例えば、絵を購入して家の壁に飾る。購入した直後はそこを通るたびに絵を見るが、だんだん風景の一つになって改めて絵をじっくり見るということはしなくなる。

そうこうしてお客さんが家に来た時「あの絵、とっても素敵ね」など、他人に指摘されてだいぶ久しぶりにそこに絵があったことを思い出す。そんなご経験はないだろうか。新しいものが特別でなくなるというのは、それだけ自分の世界が広がったということでもある。

以前新聞のお悩み相談か何かで「ペットが亡くなってずっと涙が止まらなかったのに、最近は涙が出ないし悲しみも少し薄くなって、罪悪感を感じる」というお悩みが寄せられていた。

それに対して「悲しみが薄くなって涙が出なくなってきているということは、それだけあなたの心にその子がいる時間が長くなったということです。
涙が止まらない時はまだ分離している状態だったその子とあなたが、これからはずっと一緒にいられるようになってる、ということなのです」という回答があって、なんだか私まで泣けてきてしまったことがあった。

大事な存在ほど、失った時にその大切さを感じる。

MacBookよ、やっぱり私には君だけだよ。
そう愛をささやきながら、格安PCの値段もそのMacでチェックする薄情な自分であった。







いいなと思ったら応援しよう!

小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。