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それでもやめられないことを才能と呼ぶのかもしれない

高校2年生まで音大を志していた。正確にいうと勉強ができなさすぎて音楽の世界に逃げようとしていた。

ホルンという管楽器を5年間やっていてそれなりには吹けていたし、ホルンは基本学年に一人しかおらず近くにライバルがいないこともあってか、このまま行けるような気がした。

当時は音大でオープンキャンパスを兼ねた夏期講習会というものが開催されていた。
ここに参加して初めて同世代の奏者を耳にし、その差に驚愕する。まるで天から降ってくるようなライバルたちのすばらしい音色を聞いて「ああ、これが才能の差なのか」と、何か大いなる存在に降参するような、殴られたような気持ちになったのを覚えている。

音楽の才能に溢れた鬼たちと戦う気力を無くした凡人のわたくしは、そのまま猛勉強して何とか一つの大学に引っかかりそこに進学した。

大学卒業後、ボディワーク(マッサージ)の道に進んだが、ここでも才能の差にぶち当たった。

なぜ一目見ただけで測わん症だとわかるのか。なぜちょっと触っただけで不調の原因が言い当てられるのか。丁寧でやさしい施術だけでは彼らには到底叶わなかった。努力で及ばないもの。ここでも身体の才能の鬼たちから逃げるように、普通の事務職に転職した。

事務職になってようやくこれで鬼たちから逃れられると思った。しかし文章を書き始め、さまざまな文章講座に行くと、やはり才能の塊みたいな人たちがゴロゴロしていた。彼ら彼女らの作品と自分の作品を比べるとみじめだった。

ただそれでも文章は書かないと息が止まってしまう感覚があって仕方なく続けた。強いて言えば音楽とボディワークとの違いはそこである。言葉が溢れるけれど話せない自分は書くしかなかった。もし自分に文章の才能があるとしたら「下手でも、読み手を傷つけてでも、やめることができなかった」が大きな要因かもしれない。

ただ文章を書いているとよく言われる「文章は才能がないと書けない」という意見には、ちょっと同意しかねる。

たとえば「情景が目に浮かぶような文章」。
これも才能がないと書けないと言われがちだが、実際には視覚情報を詰め込めるだけ詰め込んで書いているだけだ。
自分の目に見えたものを読者にもわかりやすいように書けば、読者の頭に情景が浮かぶのは至極当たり前の話である。

才能だ何だと書いたが、結局は文章なんてたまに思い出したように書くのが一番いい。

自分より才能のある人物の登場に怯え、夜中まで腰の痛みに耐えながらキーボードを叩き、自分が書いたものを読んでたまに自分で笑ったりする。書く道って何とも地味で、いとくらし。まあどの道に進んでも、進めば進むだけそれぞれの修羅場が待っているのは変わらないけど。

自分の子どもが書く道に進みたいと言ったら反対するだろうなあ。そう思っても今のところ自分はこの道をこれからも歩くような気がしている。




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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。