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家族も文章も、前提をすり合わせる

私が子どもの頃、母はよく眉間に皺を寄せていた。
姑の厳しい言いつけを守って、365日夕食は最低でも一汁三菜の品数。クリスマスにはオーブン料理、年末年始にはすべて手作りおせちを作っていた。

当然、母にも体調の悪い日はある。それでも母は身体に鞭打って豪華な夕食を作り続けた。父や私に当たりながら、眉間の皺を深くしながら。家の中の雰囲気を険悪なものにしてでも、一汁三菜の夕食を作ることが母にとっては家族への愛情を示すことだったらしい。

一方私としては夕食なんかマックでいいから、家の中では母に機嫌よく過ごして欲しかった。家族が言い合いをする中で食べる食事は砂を噛むようで、美味しいはずのおかずも食道のあたりに突っかかって、いつまでも胃へ落ちていかない様な気がした。

このように何が「家族の愛情か」といった前提は人によって異なる。

飲みに誘うことがコミュニケーションだと思っている上司と、じっくり対話することがコミュニケーションでむしろお酒なんていらないと思っている部下は、コミュニケーションの前提がお互いに違う。
この上司は部下に「課長、いつも僕の話を聞いてくれないですよね」ともし言われても、「何言ってんだ、いつも酒に誘ってるじゃないか!」と、あべこべな会話が出来上がる。

お互いにそれでハッピーならいいかもしれないが、お互いにそれが正しいと思い込んで突き進み疲弊するのは、悲劇でしかない。

ちなみに文章の世界でも、前提を揃えることは大切だ。

よく住宅の広告などでは「幸せな家づくり」といった言葉が踊っているが、凝ったデザインの家に住むことを幸せと思う人もいれば、一年を通して快適な温度の部屋に住むことを幸せ思う人もいる。

ブライダル業界では「アットホームな結婚式」という言葉がよく聞かれるが、このアットホームと言う言葉も曖昧である。

家族だけで挙式をしたいという友人に「じゃあそれぞれの両親ときょうだいだけ呼ぶ感じ?」と聞くと「何言ってんの、友だちだって呼ぶよ!」と返されたことがある。
いや今あんた家族だけって言ったやん!と思いつつ、よくよく話を聞くと、彼女の中では「家族のような友だち」も家族に入ると言うことだった。「家族」の前提が私と彼女の中では大きく違う。

母にとって長いあいだ家族への愛情表現とは「豪華な料理」であり、娘にとっては「母の笑顔」であった。

もしタイムマシーンがあるなら、私は当時の母と私の前提のすり合わせをしたい。家族での話し合いはどうしても「お前が悪い、私が正しい」となりがちだが、お互いの意識を共有するプロセスは共に生きていく上で必須のように思う。

どうしても近い人間は自分と同じような気持ちになってくるが、家族とて他人。
それぞれの前提は全く異なり、一緒に生きていくならそれをお互いにすり合わせていく作業は必須である。

今はすっかり手抜き料理でご機嫌に暮らす母の横顔を見ていると、やっと家族の前提が揃ってきた気がする。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。