人はみんな美しいヒレを持っている
この世界には2種類の人間がいる。
人と関わるとき話す方が得意な人と、書く方が得意な人。長い間そう信じていた。
人と話すのが苦手な私は、幼いころからどこか浮いた存在だった。
学校の休み時間では、同級生たちが楽しそうにおしゃべりする横で寝たふり。
大人になってからは、ただニコニコと相槌は打つけど何もしゃべらないポジションを確立し、いつも端っこでぽつんとした存在だったように思う。
大人しい。何を考えているのかわからない。寡黙。
長らく私の周りにいる人たちからはそんな印象だったと思うが、5年前からfacebookで長文エッセイを書くようになってから、様子が少しずつ変わっていった。
「仁美さんって、こんなに色々なこと考えてたんだね」「仁美ちゃんって意外と面白い人だったんだね」と言われるようになった。
私から言えば、話すときは情報量が多すぎる。
会話の言葉や話題の流れを追いながら、相手の声色・視線・まばたきの多さ・筋肉のピクッとした動き、それら全てが自分に飛び込んでくる中で、相手の期待する言葉をタイミングを間違えず返さなければいけない。
会話はキャッチボールというが、私にとって人と話すのは1on1でも多方向からボールを投げられてるような感覚だった。
一方、書くときは平和だ。
だれも邪魔しない、安全な私だけの世界で自由に言葉を紡げる。それでいて誰もいない寂しい世界。
つながりたい・関わりたいという気持ちは人一倍強い割に、会話ができない。だから書くしかなかった。
だが不思議なことに書き続けるうちに、少しずつ話す筋肉がついてきた。
言語学に詳しい友人いわく、英語もライティングし続けるとスピーキングができるようになるらしいので、話す脳の回路がすこしばかり開いたのかもしれない。
もしくはコミュニケーションの基本「自分の想いを、相手が受け取りやすいように伝える」のは、書く時も、話す時も一緒だと気づいたからかもしれない。
時がたち、ある尊敬する方から
「仁美さんは海の人だから。ヒレでうまく歩けないのは当たり前のように、陸の人と同じようにできないのは当たり前だよ」
と言ってもらったことがあった。
同時に、
「でももし陸の人たちから『仁美さん、泳ぎ方を教えてよ』と言われたら、仁美さんは泳ぎ方を教える役割がある」
とも。この言葉が文章教室を続けるきっかけになった。
文章教室を開いて毎回痛いほど感じるのは、人はみんな書けるということだ。
みなさん「私は文章が苦手で・・」とおっしゃるけれど、作品を拝読すると苦手とか得意とか、そういうものを超越した光るものに溢れている。
むしろ私より書けるやないか!という場合も多々。そうお伝えしても「いえ、そんなことはありません」と受け取ってもらえないこともある。
人は生まれながらにして、みんな書けるのだ。海の中で自由に泳いでいた時のことを思い出しさえすれば。
今リニューアルしている文章教室も、もっとそうした感覚を思い出す場にしたいなあというのが目下の目標である。
おまけ
先日、ある対話会で大切な方から「仁美ちゃんに聞いてほしい曲」として教えてもらった曲。(ピアノバージョン)
人はみんな、美しいヒレを持っている。