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自分の小さい箱から脱出するためにしていること

子どものころは歌ったり踊ったりするのが大好きで、その日も私はミュージカルの真似事のようなことをして、バレエ教室のみんなを笑わせていた。

その時、それを見ていた友だちのお母さんが突然「そんなみっともないことをするのはやめなさい!」と言いながら、真っ赤な顔をして私の方へずんずんと近づいてきた。

とっさに私はごめんなさいと謝ったが、そのお母さんは

「あなたは今どんなに恥ずかしいことをしているかわかっていない」
「どうして周りの人間の迷惑を考えられないの」

といった言葉を私に投げつけるように責め立てた。

何が起こったのかわからずポカンとしている友だちを横目に、私はその怒り狂う友だちのお母さんに向かってごめんなさい、もうしません、ごめんなさいと、ひたすら謝った。全身の皮膚がビリビリ裂けていくような感覚があった。

それだけがきっかけで性格が変わるほど人生は単純ではないけれど、傷口は証拠集めが得意だったりする。
成長する中で苦しいことや悲しいことが起こると「やっぱり私は思い切り笑ったりしゃべったり自分を表現してはいけないんだ」と思い込むようになった。

思い込みが重なった結果、人前でいるときは大人しく、出来るだけしゃべらず、動かないようにすることで私の箱は出来上がった。この箱の中にいればもう安全だ、やれやれ。

そんな私が箱から出たいと久しぶりに思う事件が起きた。
先日、職場でコピー機がおかしくなったとき、機械をいじっていた上司は近くにいた私ではなく、少し離れたところにいたAさんを呼んだ。
Aさんというのは明るく元気で、不愛想な私にもよく話しかけてくれたりする、誰にでも分け隔てなく接し自分から相手の懐に飛び込める人だ。

もしかしたら上司は私よりAさんの方が機械に得意そうだから呼んだ、ただそれだけのことだったかもしれない。でも私には「人は困ったとき、箱に入っている人より出ている人に頼る」と誰かに言われた気がした。

私だって実際そうだ。困ったときに頼ったり、ちょっと話を聞いてよと言える人は、ひらいてる人を無意識に選んでいる気がする。

そんなことがあって、最近朝の散歩をするときに、知らない人に積極的に挨拶するということを始めた。

私の通らない声に挙動不審な動き。返事をしてくれない人も会釈で終わらす人もいる。でも向こうの人も挨拶を返してくれたり、良いお天気ですねえと話しかけてくれることがあると、冬の冷たい自分の手が一瞬で指先までぽかぽかしてくるような感覚がある。

箱からずっと出ているオープンな人にはまだとても慣れそうもないけど、とりあえずこの出たり入ったりを続けることが大事な気がするので続けている。

潜在意識からあなたも変わる!とか、仲間との絆であなたも変われる!とか、美しい言葉に惹かれた時期もあったけど、日常でちょっとした行動を地道に続けるしか変わる方法はないと、私の場合は思う。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。