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なぜ書くことで人は癒されるの?

2年くらい前、知人を怒らせてしまったことがあった。私が書いたブログが原因だった。
「こんな風にすれば好きなことを仕事にできるんじゃないか」と書いた私のブログを見て「素人考えを書くな。信じる人がいたらどうするんだ、無責任だ」と、彼女のトリガーをひとつ、引いてしまったようだった。

それから文章を書こうとすると、手が止まるようになった。
自分ではそんなつもりではなかったとしても、誰かをまた怒らせてしまったらどうしよう。怖い。でも書きたい。

そんな状態を脱したくて、しばらく大阪の小さな文章教室に夜行バスで通っていたことがあった。

先生は突然アンパンを生徒に配ったり、文章の教室なのに突然気功の授業が始まったり、ちょっとエキセントリックな雰囲気だったけど、関西圏外から通う生徒さんも多い、評判の文章教室だった。

そこの文章教室では、徹底して「客観的に書くこと」を教えられた。

例えば
「マッサージは身体にいいんです!」
ではなく
「マッサージは身体にいいと言われています」

と書くようにする。後者の方が、若干読み手は言葉を受け取りやすくなる。
マッサージが身体にいいというエビデンスは確かにあるけども、正しすぎる言葉はかえって読み手の心に響かないのだ。

「僕は母との関係性が悪かったから、女性が苦手だ」
という文章も
「僕は母との関係性が悪かったせいだろうか、女性が苦手だったりする」

と書き換えると、より客観性が強くなる。
村上春樹みさえ文体から感じる。

「近くにあるものも、まるで遠くから見ているように書く」ことがコツだと、先生はよく言っていた。

ある日の授業で、課題のエッセイを先生に添削してもらっていたとき。

『私は仕事が出来ないから、職場で怒られてばかりいる』

と書いた箇所を、先生に

「『私は仕事が出来ないせいだろうか』に書き換えた方が、より客観的やし、真実ですね」

と指摘してもらったとき、なんだか救われたような気がした。

苦しいとき、悲しいときというのは感情が自分にからめついてきて、どうにも動けなくなっているときだ。
誰かが本気で自分の体にくっついてこられたら、小さい子どもであったとしても身動きがとれなくなるように、感情はしばしば私たちを動けなくする。

でも、その自分にへばりついて暴れる子どもからまずは1メートル、離れて見てみる。
2メートル、3メートル。離れて見る。

そうやって10メートル、あるいは川の向こう側で泣いて暴れている子を、ただ見る。

そうやって遠くから見ているとき、おそらく人は「この子をコントロールしなきゃ」「この子を肯定しなくちゃ」というところからも離れることが出来る。

遠くからただ見ることは、時に人を救う。

書くことで心に癒しが起こるメカニズムも、おそらく同じ原理なのだと思う。

人生はドラマのようにガラッと変わったりはしない。
でも自分の人生をまるで他人ごとのように一つの物語に編めたとき、人の心はどこか安らぐのかもしれない。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。