嘘はよくないけど、嘘をつかないとやってられない時もある
子どもの頃なんとなく見ていたテレビで「事実と真実はどう違う?」とトークをやっていた。
その中で島田紳助氏が「事実と嘘の間にあるのが真実や」と話していて、子どもだった自分も思わずオオオと唸った記憶がある。
嘘はよくないが、嘘をつかないといけなかったその人の心の中にこそ真実があるようだ。
以前、友人とその子どもたち(5歳と2歳の男の子)とファミレスに行った時のこと。
自分はハンバーガーとポテトのセットを、友人はハンバーグとライスのセット、子どもたちはお子様セットを注文した。
友人と話に花が咲き楽しくおしゃべりしていると、長男の方がじっと私を見ている。
最初「どうしたの?」と聞くも何も答えない。その時「あ、ポテト?食べたいの?」と聞くとうなづくので1本あげた。すると次男もアニキがもらってるので「僕も」と言い出し、1本あげた。
するとポテトの美味しさに味をしめたのか、2人とも手を伸ばして私のポテトを一心不乱に食べ始めた。すかさず友人は「自分たちのご飯があるでしょ」と注意したのだが、男子たちは「もう要らない!」と私のポテトに夢中である。
子どもらにムキになるのもと思い、ポテトを全て譲ってやった。すると奴らはそれでお腹いっぱいになってしまったのか、テーブルには子どもたちが残したお子様セットのおむすびやうどん、ブロッコリー、プチトマトらの残骸が残った。
大正生まれで戦中・戦後を生き延びた祖母と同居していた自分からすれば、風邪でもないのに食事を大量に残すなど、とんでもないことである。米一粒にどれほど農家の方が苦労されてることか。
残飯をむしゃむしゃと処理しながら、つい友人に「普段からこんな感じ?子どもたちが食事残しても、何も言わないの?」とトゲのある言い方をしてしまった。
友人は私に謝り倒しながら「普段は食べさせてるんだけどね、外食の時は許してるのよ」と言った。ふーんと言いながら店を後にした。
今から思えば、友人のあの言葉は嘘だろうと思う。
私はただ単に好物のポテトを取られて面白くねえと思って吐いた言葉だが、友人からすれば「母親失格」みたいに、責められているように聞こえ、ついああ言ったのではなかろうか。
もしあれが嘘だったと思うと、どれだけ日本のお母さんは普段から自分を責めているのだろうと考えてしまう。5歳と2歳の男子など動物そのもの、やつらに理性などない。それらを普段から一人で見て、一つでも失敗があれば大きく減点の対象となる。(これは女性のキャリアでも起こってるかもしれない)
以前、友人が不倫をしていた。彼女いわく「私と彼は真実の愛で結ばれてるの!」とのことで、こりゃ他人が何を言ってもダメだと何も言わないでいた。
ある時「そういえば彼とはいつもどこで会うの?アンタの部屋?」と聞いたところ「部屋以外でも会ってるもん!」となぜか怒られたことがあった。
その後彼とお別れした後、友人は「彼とは自分の部屋以外でデートしたことは実はほぼなかった、それがとても悲しかった」と話してくれた。
(もう昔のことだからいいよ、と友人に掲載許可をもらって書いております)
子どもの頃から「嘘はよくない、嘘は泥棒の始まり」と言われて私たちは育つ。そして大抵の人は成長する過程で、嘘をつくことのデメリットの大きさに気づき、嘘はつかなくなる。
しかし生きていると、嘘をつかないととてもやり過ごせない場面というのはある。「嘘をつかないと、到底自分の心を守ることができない」ととっさに判断した時、人は嘘をついてしまうのではないだろうか。
新しいバイト先で「もうこの仕事は一人で大丈夫だね」と言われ、本当は不安なのに早く信頼して欲しくて「はい!」と思わず嘘をついてしまった時、そんなことを思ったりした。