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「言葉じゃわからないよ〜」という言葉に逃げずに、言葉にくらいつく
よい文章とは「自分の想いを言葉にして、相手が受け取りやすいように伝えられているもの」だと思っている。
多くの文章本や文章教室では「いかに相手にとって受け取りやすい言葉を伝えるか」の方法について取り上げている。
しかしその手前の、自分の想いを言葉にするとプロセスについては、すっ飛ばされるされることが多いようだ。
そしてやってみると自分の感情・感覚を言葉にするのは、意外とむずかしい。
私はライターをやっているせいか「何でも言葉にできる人」と周囲に思われがちだが、実際には大好きなミュージカル観劇後などは「やばい!うおーやっばい!」しか言えなくなる、ちょっとアレな語彙力の持ち主だ。
もっと白状してしまえば、公開しているnoteの数と同じくらい「ううーん、どうしても言葉に出来ない・・」とお蔵入りした記事が下書きフォルダにいくつも眠っている。
だが先日、自分の気持ちを言語化している人と出会い、なんだか救われたような気持ちになったりした。
つい先日、ちょっといい店でお買い物をしたとき「袋は有料ですがお付けしますか?」と店員さんに聞かれ、なんとなくモヤモヤした。この違和感をどう言い表したらいいのかわからずそのままだったが、ある時そのことについて、ツイッターで(内容は別の店についてではあったが)しっかり言語化している人がいて「私も同じこと思った!」となった。
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「そう、私も同じこと感じてたんだよ!」
「なんて言ったらいいのかわからなかった。でも言葉にしてくれてすっきりした!」
などなど、
誰かが自分の感情を言語化してくれると「仕方なく隅っこに追いやった自分の気持ち」に、やさしく光を当ててもらったような気に、私などはなるのだ。
自分の想い全てを言葉にすることはできない。言葉にしたところでわかり合えるとも限らない。
しかしそれでも自分の想いを言葉にしようとしている人を見ると、希望のようなものを感じる。
ミスチルの歌詞で「白と黒のその間に、無限の色が広がっている」という一節がある。
これを言葉と想いの関係に例えると、白や黒といったはっきりと名前が付けられる感情の他に、あまりにも多くの色、つまり言語化しきれない想いがこの世界を占めていることを示しているように思う。
青色ひとつ取っても、水色・藍・紺・浅葱と多様で、空の青と海の青は全く違ったりする。
それを一つ一つ言葉にするのは果てしない、脳みそに大汗をかかせる作業だが、その行為はこの世界を豊かにするものだ。
コーヒー豆からエスプレッソを抽出するように、想いを言葉にする。その方法は100人いれば100通りある。同じものを見ても感じるものは人の数だけある。
文章がうまいへた以前に、その人のフィルターで見たものがそのまま言葉になっている文章は心を打つ。
自分の想いを言葉にする。
それはあなたの眼に映った景色を、あなたにだけ見えたものを「言葉じゃわからないよ」という言葉に逃げずに、どろくさく言葉に置き換えていく作業なのかもしれない。
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