期待した反応がこなかった時

野菜のおそうざい2つに卵焼き、それに魚か肉。

高校時代に母がつくってくれる私の弁当のおかずは、この組み合わせがスタンダードだった。

一人暮らしをして会社に持って行くお弁当を作るようになって、毎日これを作り続ける大変さを知った。

夏場は痛まないようにとか、冷めても美味しいように濃く味をつけるとか。きっと母は毎朝心を配ってくれていたのだと思う。

当時高校生だった私はそんなことは知りもせず、茶色いおかずはダサく見えて、コンビニでお昼を買ってくる同級生がやたらカッコよく見えた。

母に感謝の言葉ひとつ掛けなかったし、きっと態度にも出ていたと思う。そんな何のリターンもないお弁当作りを、母は黙々と続けていた。


最近「自分がやりたいことをやっていても、他人から何の反応もないと、時に辛いことがある」と友人が話しているのを聞いて、母に何の感謝もしてこなかったことをふと思い、罪悪感から胃の辺りがギリっとした。

同時に、何の見返りも求めずお弁当を作っていた母と、人の反応を気にして手を止めることもある自分を比べて、胃の辺りがどんよりした。

文章のお仕事を始めたころ、クライアントの方から「まさに私の言いたかったことです」「言葉にしてくれてありがとう」と感謝されることもあれば

「ちょっと思ってた感じと違うので、書き直してもらえますか」と申し訳ないことを言わせてしまったりして、時に書くのが怖くなったりした。

自分の仕事と自分を切り離せ、他人の反応に一喜一憂するなと自分に言い聞かせても、どうしても評価されたい・認められたい自分が暴れて、動けなくなることもあった。

今はそういうことがあると「今日すべてをわかってもらおうとするから、心が乱れる」という言葉を思い出すようにしている。

その場で相手の言っていることがよくわからなくても、後から「あの人が言ってたことって、もしかしてこういうことだったのかな」と突然わかる時がある。

それは数日後のときもあれば、数年後のときもあった。

「だれからも期待した反応が来ない」と自分だけに矢印を向けると苦しくなるけど、矢印の範囲を少しだけ広げて未来に想いを馳せてみると、何だか自分はひとりじゃない気がしてくる。

15年の時を得て、私はやっと母への感謝を自分なりに噛み締めている。反応という人との関わりには、時としてそんなタイムラグが起こることもあるのだ。

他人の反応が欲しい。できればその場でスゴい好意的な承認があるとうれしい。

そう思う一方で、時を超えて誰かと深くつながる瞬間への憧れと渇望を抱えながら、本日も生きている。

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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。