お金を受け取る罪悪感は、過去の寂しさから来ていた
湘南でコミュニティサロンを運営する友人から「仁美さん、うちの部屋で文章教室を開いてみませんか」というお誘いがあった。
これまでオンラインのクラスは3回やったが、リアルではまだない。いつかやってみたいと思ってたので喜んでお受けすることとなり、さっそくzoomで打合せとなった。
料金の話になり、私が「このくらいのお値段で・・」と金額を掲示すると、友人は驚いた様子で「え、安すぎるでしょ!?」と声を上げた。
まだまだ駆け出しの身ですので・・と言い訳する私に友人は少し戸惑いながら「仁美さん、これから書く仕事で生きていきたいんでしょ?それは執筆料金で、毎月お家賃やお米代を払うってことだよ。本当にその値段でいいの?」と聞いてきた。詰まる私に、友人はもっと相場の料金を調べてみるようアドバイスしてくれた。
自分のサービスを値段設定することは、ずっと避けてきた事柄だった。
やりたいことをさせてもらうのにお金をもらうなんて申し訳ない。
私より文章がうまい人で、私より安い価格の人もいる。
そもそも高い価格を受け取ることに、なんだか罪悪感がある。。
そんな思考が頭でグルグルし、いつも動けなくさせていた。
そんなとき、友人のプロコーチから「急なんだけど今晩コーチングを受けてくれない?」という連絡が入った。彼女がアシスタントで入っているスクールの宿題らしいが、なんというグッドタイミング。さっそくお金というテーマで話を聞いてもらった。
「なんか、自分のサービスに高い金額をつけるのに抵抗があるんだよね」という私に、その友人コーチは「高い金額って聞くと、どんなイメージがある?」と聞いてきた。そのときふと思い出したのは、以前受けた8万円の講座だった。
セラピストをやっていた時、あるボディワークについて3時間×4回で88,000円の講座を受けたことがあるのだが、一緒に受けた参加者で話の長い人がいて、主宰の講師の話を聞きに来たのに、ずっとその参加者の話を聞かされるということがあった。
一回目などその参加者の自己紹介で90分過ぎてしまった。ずーっと一人で話し続けるその参加者のことも、その参加者を制さなかった講師の先生のことも、未だにあまりいい感情が持てない。あんな講座だけはしたくない。
それを聞いていたコーチに「仁美ちゃんの中には『価格より価値が上回っていたい』って想いがありそうだね」と言ってもらって、何か腑に落ちる感覚があった。
そうしてコーチと話していくうちに、価格設定とは「自分が全力でコミットメントできる金額」にすることなのではないだろうか、という考えが浮かんできた。
あるビジネスコンサルタントなどは「自分の望む年収÷開催できる回数の値段=講座金額だ!」と言うが、1万円でその場に集まって下さった皆さんに本気で向き合えるなら1万円なのだと思うし、それが2万円だと思うなら2万円で、そこに交通費や日当、場所代を足していけばよい気がする。
たしかに最初はそれで家賃を払っていけはしないだろうが、参加者にとって講師の家賃代は本来関係のないことである。本来の適正価格というのはそうやって決めるものではないだろうか。
私がさきほどの8万円の講座に納得できなかったのは、8万円払った自分の熱意と、講師の本気が釣り合っていないように感じたこと、そしてそれが寂しかったからなのだと気づいた。
「さて、じゃあどうする?」とコーチに問われ、今度の講座はいつもよりほんの少しお高めに設定させてもらうことにした。後日、先方も快く了承してくださった。
動けなくなる時は自分ひとりではどうしようもないことが多いけど、過去に置いてきたさびしさや悲しみを時には引き返してしっかり完了させてから、前に進みたい。