節約でも副業でもなく、物価高の世の中を生きるために必要だと思うこと
長い間、私にとってお昼ごはんを外食する時の値段は500円が目安だった。
ランチと言えば500円、ワンコインで済ませるのがランチ。
しかし最近の物価高で1,000円前後で安い方、1,500円でサラダやドリンクが付くちょっとイイ感じ、観光地などでは2,000円~というのがランチの相場になってきた感じがある。
最初は抵抗するように社食の450円のそばや、サイゼリアの500円ランチを頼んでいた。しかしそうしたメニューは私にはきもち量が少なく、夕方になるとたいていお腹が空いてしまっていた。ついコンビニの割高お菓子を買ってしまった日は後悔がすごい。
結局お弁当と水筒を持って行ったり、お弁当を作れなかった日は観念して1,000円くらいの外食をするようにしている。
節約をしたつもりで消費が増えたり、かえって痛い目に合うことも多い。
先日、夜行バスに揺られて関西まで行ったのだが、到着するなり腹痛になってしまったことがあった。
夜の23:30に出発して、乗り換え時間を含め目的地に着いたのは13時前。着いた途端に動けずにしゃがみこんでしまい、せっかくの旅行の出だしを台無しにしてしまった。半日以上横にならず、座り姿勢だったことに内臓たちから大クレームが来たようだった。
何事にも「流れ」がある。
最初はうまく流れに乗ったつもりでも、流れというのは往々にして変化していくもので、流れが変わったことに気づかないでいると本流からそれてしまうことがある。
今回の私の場合は、物価が上がっても自分に我慢を強いる形で節約しようとしていた。でも身体が「そのやり方はあきまへん」と教えてくれたような気がする。
「100歳まで生きるつもりで、かつ明日死ぬつもりで生きろ」という言葉を聞いたことがある。
自分の将来を考えた決断をしながらも、日々の喜びを大切にしながら生きなさいということだと思うが、お金についても「将来のためのお金もいくらか貯めておきながら、日々の生活のことも大切にする」と言い換えられるかもしれない。難しいけど。
流れは日々、確実に変わっていく。
自分を削るようにして節約したり我慢したり、あるいは残業したり副業したりすることを社会から求められているような気もするけれど、お金はエネルギーの循環であって、苦しみから生まれるものではきっとないはずだ。
自分が世界のために使われている時の、喜びのエネルギーから心身を動かしている時のことを英語で「well uesed」と言ったりするらしい。
自分を削る方向とは真逆の、喜びから自分を使い果たすように日々を生きる「well used」な生き方とは何か、模索しながらこのご時世も走り抜けていきたい。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。