おもしろい文章は、MよりSでいた方が書けるっぽい
小学校の時「サラダ油の原料は何か」という作文を書いて花丸をもらったことがある。
自分は勉強もスポーツも教師への気の利いたコミュニケーションもできない劣等生であったから、生涯で唯一もらった花丸は強く心に残っている。
今はあまり見かけないが平成初期、家庭の調理用油にサラダ油はメジャーであった。しかし「サラダ」という油とあまりにもかけ離れたイメージの言葉が油の名前についていることに、当時の自分は疑問だったようだ。
調べた結果「様々な種類の野菜を合わせたサラダのように、複数の種類の油をかけ合わせた油」をサラダ油と呼ぶことに驚き、それを書いて作文につづった。
教師からは「その視点を大人になっても忘れないように」とコメントがあった。優秀な子どもであれば「その視点」とやらで作文を書いてまた花丸を取るのだろうが、自分は「この視点」がわかるようでわからず、それ以来の作文はあまり評価されないまま大人になってしまった。
現在、文章教室をするようになって、なぜあの時の作文が評価されたのか段々わかってきた。それは「自分の目に飛び込んでくるものを、能動的に見ようとしていたから」ではないかと思っている。
ライターの古賀さんはこの能動的視点のことを、このように例えている。
自分の作文に話を戻すと、サラダ油の原料なんか人にとっては至極どうでもいいことだろう。
しかし①疑問をなかったことにせず、②調べて、③文章にまとめて、④人に伝える。簡単に思われるかもしれないが、④までする人が少ないからこそ、ここまでできる人は光る。
花丸をくれた教師は、当時勉強もスポーツもただ受動的だった自分が、珍しく能動的に動いているのを作文という形で知って「その視点で他のこともやってみたら」と伝えたかったのかもしれない。と25年の時を超えて感じた。
ある作家さんは「これからの時代はアウトプットよりインプットの方が大切である」と言っていた。要は何だっていいのだ。目の前にある椅子だって、キムチだって、地下鉄のホームドアだって何だっていい。
自分の目にだけ見えたもの、聞こえたこと、感じたものを自分なりに観察して、そこから推論を重ねる。古賀さんは上記の本の中で「推論は直感で判断せず、必ず理を伴った推論を展開していくこと」の大切さも同時に説いている。
自分の目に見えたものを、みんなにもわかるように伝える。受け身だけではプレイは楽しくない(?)ように、あらゆる物事に好奇心を持って攻めていく。それこそが表現の本質なのかもしれない。
今日もお疲れ様でした。
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最後までお読みくださり、ありがとうございます。
明日も適当にしっかりで参りましょう。