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水辺にて

 ブラジルの常夏の地にご縁をいただき暮らしている。常夏とはいえゆるやかな四季があり、12月は真夏で、日本とは反対に7月8月は肌寒い日もあり雨季となる。
 今年の雨季は特に雨が多く、その恩恵にてわが家の前の湖はより多くの水を湛えその奥のジャングルは青々とした葉を生い茂らせている。湖の水面が風により漣となっている風景は美しく、ざぶざぶと心が洗われる。

 高僧であり学者であらせられる河波定昌先生の『聖地はいずこも水辺にある』というお言葉を胸に記憶している。
 毎年お別時が行われる唐沢山の阿弥陀寺は、諏訪湖をのぞめる高台にあり本堂の横には湧き水があふれている。河波先生にとっても特別な聖地であったようで、透析を受けるお体になってからも、毎年導師をおつとめになられた。
「ここに来て、触れることが一番大切だ」。
 河波先生が最後にお導師をなさった唐沢山お別時に参加できたことはわたしにとって得難く有難い経験となった。
 もう20年以上前のことだが、わたしの夫が河波先生に、布教の心得についておたずねすると、こうお答えくださったそうだ。「理論、理屈は駄目。心で話すこと」。また「汗もかかなければならない」とも仰られた。これは、布教・修行だけに限らずいろいろな物事に通ずるお言葉だと受け留めている。
 わたしたち夫婦は小さな食堂を生業としている。ベランダ席からは湖を一望することができる。タガメが棲息しホタルが飛び交うきれいな水を湛えた湖。その湖のほとりでわたしたちは毎日たくさん汗を流し作業をする。
 草を刈り木の枝を切る屋外作業、厨房ではカレーやラーメンの仕込み。スープやカレールーは全て自家製、そして麺もすべて手打ちなので、大層な時間と労力がかかる。机上の論では料理は完成しない。心技体すべてが必要。日々の研究と工夫にて、まるまると心をこめた美味い料理を創る。
『法』は『人』を通じて伝播してゆくものであるが『人』が創る『料理』に仏道というスパイスを含ませて伝えることができたらなぁ、という理想を胸に持っている。
 先日はアラブからのお客さんが「礼拝堂をおがみたい」と乞うてくださり、とてもうれしかった。お供えにいただいた異国のチョコレートは美味しかった。

 うちの水は地下45メートルから組み上げた井戸水。目の前の湖の水を日々飲んで料理にも使っていることになる。
 そのことを知って友人のロナウド(仮名)は「水道水のようにきちんと処理されてない井戸の水は口にしたくない。汚い」と言った。彼ははっきりとものを言う人物で「自然はキライ、ネオンが好き」と言うような都会っ子。心身に障がいのある人や黒人を蔑む言動も多く、そのことに辟易したわたしは数年間彼との付き合いを断ち疎遠にしていたのだが、ロナウドは先日ふらりとやって来て「からあげ定食が食べたい」と言う。
「うちの料理に使っている水は汚いからイヤだったんじゃないの?」と揶揄ったのだが、どうやら心境に変化があったらしい。
 カンドンブレというアフリカ土着の信仰に傾倒しているそうで、その影響で黒人差別主義者ではなくなっていた。社会的に弱い人への差別も消え去ったようで、布教やボランティアに情熱を注いでいるとのこと。そんな彼をみて、ダライ・ラマ法王の言葉を思い出した。

 心の本質は、池の水のようなものです。嵐で水がかき乱されれば、池の底の泥が浮き上がって水を濁らせます。しかし水の本質は汚いものでせはありません。

 ロナウドの差別主義は、こころの嵐によって水が泥で濁ったことにより発生していたのだろう。信仰という縁をいただいたことにより彼は、本来の美しい心に還ったんやなあ。

 心をよどませず、さらさらさらといつも心中に清きせせらぎを流すことができれば、その美流は周囲と同化し、思いやりや智恵を交換・交歓しあえるのかな、と、温かい循環を想像しうれしくなった。
 ものごとを一箇所だけ切り取って判断すべきではないな、と、ロナウドと絶縁していた自分を省みもした。
 そこでまた思い浮かべるは、唯識の物の見方を指す、一水四見の例え。人間にとっての飲み水は、魚にとっては住むところ、餓鬼にとっては恐ろしい火に見えて、天人にとっては美しい瑠璃に見える。
 唯識とは外れるが、水が飲みものにみえる『人間』のなかでも見方・感じ方は、おのおのちがう。わたしにとっての『不味い水』が、あなたにとっては『美味い水』やもしれず『いい湯だな』のお風呂の温度は別の誰かにとっては熱すぎることもある。
 日本では『フンコロガシ』という身も蓋も無い呼び名をつけられたあの虫を、古代エジプトでは糞を転がして大きな玉をつくることに神秘を感じ、聖なる甲虫・スカラベとして崇拝した。
 河波先生が「同じ地球に暮らし同じ水を飲み同じ空気を吸っているのに、神様だけがそれぞれ違うのはおかしいですね」と御話になられるのをお聴きして、呼び名は違っても実体は同じ、ということを深く思う。

  ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 方丈記は、凄まじく悲惨な時代を生きた鴨長明の随筆であるが、こんなにもさらさらとテンポよく紡がれた言葉で幕を開けることに、何度読んでも感銘を受ける。
 風が吹き、幾多もの漣ができている湖の水面を眺めながら思う。
 ひとりひとりの命が、大海の波のように個々の人間として現象して現れているのが現生だとすると、この肉体を離れた死後は、またもとの大きな大海に還っていくのだから、そうなればわたしもロナウドも誰も彼も、みな大いなるひとつの命。
 宇宙の真理であり如来さまの懐のなかである大海に還るまでには、この水の惑星にて阿弥陀如来さまにお縋りして、仏道の実践に努める。

 この泥があればこそ咲け蓮の花(田中木叉上人)

 仏教の象徴でありインドの国花である蓮の花は、どろ水の中から美しく咲く。


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