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第5章 ヴィッキーさんの信仰と道連れ

19 「テディントン」

ヴィッキーさんには人生で何度かの転機があり、そのときどきに居所を移されます。

読者である私たちは、もちろん、どの場所も実際にはいちども見たことがありません。

ところがなぜか、どの場所もとてもイメージがわいてきて、なんとなくその場所に行ったような気分になってしまうのが不思議です。

たぶん、ヴィッキーさんのその場所への愛情と思い入れが、読者である私たちにも伝染するんでしょうね。

そしてヴィッキーさんのお話に出てくる場所が、どこもとても美しいところに思えてしまうんです。

なかでもこの「テディントン」というのは、実際にまるで絵のような風光明媚なところのようですね。

そして、その場所がヴィッキーさんの人生に近づいてくるその仕方が、これまたいつも同じような不思議な経緯をたどります。

まさに、人生というのはまるでオーケストラのそれぞれの楽器のように、その人その人に固有の音色があるんでしょうね。

ヴィッキーさんの人生は、いつもヴィッキーさんの音色の経緯をたどるのだと思われます

グレート・ミッセンデンで開業医をしていたとき、ヴィッキーさんは家に引きこもった患者の訪問介護も引き受けていたようです。

そのなかに、キングズ・アシュという小さな部落の患者がいました。

標高千八百メートルの丘の上にあったその患者の家は「テディントン」と名づけられ、景勝地としてガイドブックに載るようなすばらしい眺めの場所にありました。

そこはなだらかに広がる農地に三方を囲まれ、一方が深い谷へとなだれ落ちるその風景は、まさに息を呑むような眺めで、ヴィッキーさんはいつもここへの往診を心待ちにしていたようです。

その患者さんが亡くなったとき、ヴィッキーさんは田舎の噂話のなかで、そのコテージが売りに出されていることを知るのです。

当時、ヴィッキーさんは糖尿病でしばらく入院したあとで、必ずしも経済状態がよくはありませんでした。

でも、あの「テディントン」が売りに出されていると聞くと、その美しさが思い出されて、ヴィッキーさんはどうしても落ち着けなくなってしまいます。

まさに、あんなところに住むのが昔からの夢だったからです。

そしてある朝のこと、私はクリニックでの診療にまったく身が入りませんでした。
少し前に、そのコテージは、普通の不動産屋が仲介するのではなくて、バーカムステッドのある弁護士が売買を取り仕切るという話を耳にしたばかりで、しかも、隣の農地の所有者が自分の農地を広げようと、かなりいい値をつけているらしいのです。
私の心は沈みましたが、にもかかわらず、私はバーカムステッドの電話番号を回していました。
弁護士は、慇懃にたずねてきました。
「おいくらまで、お支払いになる用意がありますか」
私は、八百ポンドが上限だと答えました。
「ある方は、すでに千五百ポンドをゆうに超える値をつけてきていますが」
彼はしらっと答えました。
そんなお金は、長年かかって揃えた家財道具一式を売っても用意できそうもありません。
「とりあえずお名前をうかがっておきましょう」
そう言われて、私は自分が誰で、どんなふうにこの売買について知ったかを話しました。
電話を切ると、私はがっかりして仕事に戻りました。
その夜、心を慰めようと聖書を手に取り、ぱっと開いたところを読んでみると、こんな言葉が目に飛び込んできました。

「あなたがたの足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなる」
 (申命記一一章二四節)

私は間髪入れず、車に飛び乗っていました。
真夜中をゆうにすぎており、月だけが旅の道連れです。
そして「テディントン」に着くと、道の端に車を停めました。
目の前には銀色の月の光を浴びて、深い谷が遥か彼方まで広がり、辺りには、優しい静けさと胸躍る空気が満ち満ちています。
私は敷地の境界に沿って、ゆっくりと歩き始めました。
誰かがそのありさまを見たとしたら、完全に気違い沙汰だと思ったことでしょう。
私は土地の周りを、エリコの壁のように、三度きっちりと踏みしめました。
そして帰り際に見上げた月は、確かに笑っていたのです。
その夜眠りにつくと、私は夢を見ました。
歩くたびに、私の足の周りに、たくさんの花がにぎやかに顔を出すのです(その土地は、荒れ果てていました)。
そして、あらゆる生きものたちが、歓迎のダンスを踊っていました。
さまざまな動物たちと、たくさんの妖精たちと花たちに囲まれた
不思議な魔法の夜で、私の魂は、高らかに喜びの歌を歌いました。

 『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p49-50)

いちどその場所を見てみたいものだ、と思わせるような記述ですね。

ヴィッキーさんの人生の特徴のひとつに、とても美しい見晴らしの良い土地に縁がある、ということがあるような気がしませんか?

ちょっと話が飛びますが、ヴィッキーさんが創始者となったオーラソーマの哲学に、サトルアナトミー(微細解剖学)という概念があります。

人間は肉体だけで生きているわけではなく、その肉体を乗り物として使っている主人のようなものがあると想定するのです。

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その肉体を乗りこなしている主人は、地上の多くの文化圏で一般に“魂”とか“霊”などと呼び習わされています。

肉体が誕生するとき、どこかの時点でその肉体に“魂”が入ってくると考えるのですが、その受肉した魂は、肉体を乗りこなすための一種のマニュアルとも言えるものを携えてくると考えるのです。

「オーラソーマ」では、人間の微細身の構造として、

・9つのチャクラ(エネルギーセンター)と
・3つのスター(星)

というものを認めています。

微細身の構造として、「チャクラ」と「スター(星)」の2種類を区別するのは、両者の働き方がまったく違うからです。

「チャクラ」というのは、“魂”が乗り物である肉体を乗りこなすためのハード“マニュアル”と理解するとわかりやすいです。

「車」で言えば、車体の諸機能を操作するためのハンドル、ギア、ブレーキなどについての説明みたいなものだと。

一方「スター」は、その“乗り物”を駆使してたどる魂の旅の指針、いわばソフト“マニュアル”と理解するといいです。

「車」で言えば、ロードマップやナヴィに当たります。

オーラソーマでは、それぞれの“魂”は3種類のスター(導きの星)を具えていると考えます。

つまり“魂”は、自分がたどる人生を3つの側面で規定するいわば「人生シナリオ」を携えていると考えるわけです。

その3つのスターを次のように定義しています。

・インカーネーショナル・スター(受肉の星)
・ソウル・スター(魂の星)
・アース・スター(地球の星)

この3つの導きの星に書いてあるのはだいたいこんなイメージです。

・「インカーネーショナル・スター」:天賦・人縁の書
・「ソウル・スター」:転生を通じての天命の書
・「アース・スター」:地縁の書

つまり私たちは、両親から受け継いだDNAと人縁という条件の下に、その惑星での地縁の導きをつうじて、天命の書の1ページをたどる、といったようなイメージです。

だいぶ話が飛びました。
ここで言いたかったのは、要するに、私たちは地上で歩む大地は、魂が携えてきた「アース・スター」で予め定められている可能性があるということです。

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