自分ということ ナルタン
人は、ほとんどの人は、自分は自分のことを知っていると思っています。
当たり前だ、自分のことなんだから、自分がいちばんよく知ってるにきまっている、ということなのでしょう。
そうでしょうか。
じつは知っていると勘ちがいしていることが多いのです。
ーナルタン
あなたは誰?わたしは誰?
以前、インドのOSHOのアシュラムで、十数人が隔離された部屋で「あなたは誰か?」という問いを三日間集中的に問いかけあうグループセッションが行われていました。二人一組になって「フウ アー ユウ(Who are you ?)」と、ときどき相手を変えながら問いつづけるセッションです。
あなたは誰? と問われて、人はふつうなんと言うでしょう?
まず名前、出身地、仕事、好きな食べもの、趣味、家族、やりたいこと、行きたい場所などなどを語り、あとはおぼろげな将来像などを語ると、はたと止まって、はじめて「えっ、自分て、ほかになにがある?」と気づきます。そして、そこではじめて自身の内面に焦点が移っていきます。
この瞬間この地点が、人が自分のことをじつはよく知っていないことに気がついて、もっとよく知りたいと感じる出発点です。
ところがコトはそこからうまくスムーズに進んではいきません。たいていの場合、それ以上深くは踏みこんでいかないのです。なぜか?
怖いからです。
自分のなかには、なにが隠れているか知らないからです。
誰もが経験することですが、自分の内側の奥深いところには、ふだんは知らないような暗くて嫌な怪物… どす黒い怒りや憎悪がひそんでいるんじゃないかという恐怖があるからです。
「自分」は意識を住みかとしていて、その意識は膨大な無意識層のなかの、ほんの一部でしかありません。ということは、自分をもっと知りたい人は、この広大で暗い迷路のような意識のなかに跳びこむほかないのです。
加えて、その自己を探求する作業には終わりはありません。
「へえ、今どき自分探し? はやらないね」などと、わかったような口ぶりで自己探求を揶揄するいわゆるオトナは、真摯に自分を知ろうとしてこなかった人たちです。気にかける必要はありません。
自分探しの旅へ
わたしは最近『インナーラビリンス』という本を出しましたが、これは何年も前に書いた、わたしなりの自分探しがテーマです。
この本は、わたしが、それまで自分だと思っていた自分はなんだかちがうと気づいて、その混沌から抜けだすため、旅立つところからはじまっています。そして師OSHOのもとで恐れおののきながら自らの未知の世界と出会い、またグループセッションのなかで自分の虚構を剥がされていきます。
どれもけっして快い経験ではありませんでしたが、自分という迷路迷宮を探るという、わたしがまさに求めていた体験を得たのでした。
そうです。自分を探し求める行程は、それが真摯であれば、けっして楽しく愉快なものではなく、むしろ、苦しく痛い経験になることがほとんどですし、また、ひとつが終わったからそれで終わりということにもなりません。
そして、おいしい見返りはなにひとつありませんし、誰かが褒めてくれるわけでもありません。
あるのは驚きと、感動だけです。
ですが、その驚きと感動の深さには、なにものにも代えがたい価値があるのです。
ナルタン(日家ふじ子)
名門英和学院に在学中、高校2 年のとき、当時超難関だった米国財団のテストにパスして奨学金を獲得し、ニューヨーク州の高校に留学。帰国後、東京芸術大学建築科に入学。卒業後、東洋都市建築研究所の研究員を経てふたたび渡米。
その後、プリストン大学の建築科教授と結婚。のちに離婚するが、そのころ OSHOの講話と出会い渡印、弟子となる。
『インナーラビリンス 自分という名の迷宮』
著者 ナルタン(日家ふじ子)
OEJ Books /めるくまーる
定価1,980 円(税込)
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