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書評「ひとり遊びの教科書」自分らしさを取り戻すためのきっかけとは。
こんにちは。福岡に移住してフリーランスをしている酒井です。
東京から福岡に移住して毎日うどんを食べて生きています。
というか、福岡のうどんが美味し過ぎる!という感動を伝えたくて食べたら記録に残すようにしているのですが…
このことを福岡の人に伝えても「あっ、そうなんですか?」みたいな反応なんですよ。
むしろ、うどんにそこまで熱くなる人間っているんだぁ。へぇー。みたいな目で見られます。
こういう部分は東京から引っ越してきた僕にとっては、ラッキーだったと思うのです。
福岡に住んでいる地元の人たちにとっての「普通」が、実は他の地域からみたら「極上」だったっていうのは、ある種の発見だと思うんです。
日常の中に自分の想像を超える何かが落ちている毎日って、それだけで幸せな気がしませんか。
そのことをしっかりまとめられていたのが、今日紹介する「ひとり遊びの教科書」です。
ネットでおすすめされていないものを、受け取りに行く。
スマートフォンを一人一台もっているのが当たり前の現在、わからないことや気になることがあったら、とりあえず一旦グーグルで「検索」してみる。
検索結果は、検索した内容と関連性が高く役に立ちそうなコンテンツから順番に表示され、そこをみることで問題がある程度解決できる。という仕組みになっている。
他にも、過去の検索履歴をグーグルが覚えてくれているので、その人に合った回答をおすすめしてくれるような仕組みまでついている。
こう書き出すと、さも便利なものをグーグルは準備してくれた。ありがとう。で終わりそうな気がするのだが…ここに違和感を覚えてしまう自分がいた。
正直に言うと、僕は仕事でお客様のサイトの記事がGoogleの検索上位に出てくるお手伝いをしている。
つまり、お客様の見込み客がする検索の上位に記事を編集している。
もちろん真剣に役にたつ情報をしっかりと入れているつもりだ。
だから、グーグルのことは一通り勉強してきたし、彼らの持つ「利便性の追求」は素晴らしいものがある。
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そんな僕が、検索の何に違和感を覚えるのかというと、「偶然や発見の面白さ」を人間から奪ってしまっているのでは…という気持ちがあるからだ。
冒頭に書いた「地元の人が気づいていない福岡うどんの美味しさ」について、僕は本当に引っ越してくるまで知らなかった。
特に「牧のうどん」のうどんの美味しさは僕にとっては別格だったが、
「福岡 グルメ」
で検索しても、牧のうどんは出てくることはない。
出てくるのは、いわゆるもつ鍋とかラーメンだ。
一方で今、福岡に住んでいて思うのが、地元の人たちはそんなにラーメンやもつ鍋を食べていない。
その代わりに、うどんの方が圧倒的に食べられているのだ。それはちょっと街を歩けば「うどん屋」の数が非常に多いのですぐにわかる。
ネット検索だけではなかなか知り得なかった情報は、街中に落ちていたのだ。
人間は「失敗したくない」という気持ちがあるので、検索をすることの価値から離れられないと思う。
ただ「ひとり遊びの教科書」の中で宇野さんは語る。
「自分で感じて、自分で考えることを忘れがち」
ネット検索で良さげな情報をしらべ、「確認」するだけの生き方は本当に自分の人生と言えるのだろうか。
例えば、たまにはネットから離れ知らない街へ飛び込み、自分の好きそうなものを自分の感覚を頼りに発見してみる。
その方が自分がどのように物事に触れたら気持ち良いかをしっかりと考えられるようになるのでは…と思うのだ。
だから、ネット検索では出てこなかった、牧のうどんを偶然見つけた時に僕は興奮した。
まだまだ僕の知らない検索に載っていない美味しいものが福岡にはたくさんあるはずだ。と思えたからだ。
そして、牧のうどんのことを書いている時に僕はたまらなく自由を感じる。
こういうことが一つあるだけで、随分と気持ちに余裕が生まれてくる。
なにか嫌なことがあっても、僕には牧のうどんがあるから、大丈夫。自分を取り戻せる場所を一つ見つけたような感じだからだ。