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夢中とは夢の中

20代会社員のA君の話。男。3次元に推しがいるらしい。CDが出たり、ライブをするようなジャンル、とだけ言っておく。かれこれ4年ぐらい、大学生の時から推しているそうだ。

推しにしか興味がない」タチだったらしい。
推しがいるかいないかであらゆる物事を考え、金も時間も惜しみなく使う。推しがコンテンツとして私たちに提供してくれる部分を余すことなく消費したい。自分の知らないコンテンツとしての推しがいることが耐えられない。そんな感じだったと彼は言う。

認知されたいとかTO(トップオタク)になりたいとかはない。まあ、いつもありがとうとか言われたらそれは嬉しいけど、ステージでキラキラしててくれればそれで良かったらしい。
あくまでも、「自分が全部見たい」からそうしてきた。
「○○したいから○○しなきゃになったら離れ時」みたいなことを聞くが、彼からすればそれは常にイコールだった。「買おう買いたい、行こう行きたい」ではない。「全部見たいから買わなきゃ、全部見たいから行かなきゃ」だった。

どうして世の中のオタクは、好きな人に対してそうも適当でいられるのだろう。金がない? なら作れ! 都合が合わない? 合わせんだろうが! その時その瞬間にしかいない推しを、どうしてそんな簡単に諦めて生きていけるの? そう思っていたらしい。
というか、正直今も思っているんじゃないかと思う。じゃあ全てを掴もうとすることが真摯ですか? と言われても、そうだよなんてとても言えないのに。

どうせ裏では何やってるかわかんないのにとか知らないことだらけなのにみたいなことを言われるが、それは当たり前だと彼は言う。だから「コンテンツとしての推し」と書いた、と.
見せられない部分は知らなくて良い。知り合いにもなりたくないし付き合いたくもない。でも、こちらに見せているところは余すことなく見たい。
それが「普通」だった。彼の中では。
当然、会社員の給料で生活費を切り分け、残ったお金だけで全部を賄うのはだいぶ厳しい。

いつしか本業の他にいくつものバイトを掛け持ちしたそうだ。推しのためなら頑張れる。頑張れた。あの輝きを得るためなら何だってできた。推しのためなら。推しを見るためなら。
彼の原動力は全て推しだった。もはや、生きる理由も推しだった。
ある時、「自分の生活もままならないのに、何でこんなに頑張ってんだろう」と思ったらしい。
思ったら、最後だった。

ちょうど昼の仕事で人間関係で悩んでいたこともあり、全てが崩れた。
推しに会いに行っても全く心が踊らない。煌めきがない。推しのパフォーマンスのクオリティは何も変わらないのに、彼がそれを受け取れなくなっていた。その頃には仕事も何もかもやる気がなくなり、1日ベッドに沈んで自分の空っぽの心に泣き伏すこともあったそうだ。
苦しい、くやしい。推しが嫌いになったとかじゃないのに。でもこう悩んでる間にもコンテンツとしての推しは続いていくから、一寸先も真っ暗の中縋るように次の予定を入れてしまう。諦めたくないから。やっぱり見たいから。

反面、どんなに見ても大事にしても応援しても、推しは決してこのボロボロの自分を肯定してはくれないのだと悲しくなったらしい。そんなの当たり前なのに変な話だ。それでも疲れきった身体は、なぜかステージ上での煌めき以上の労りや見返りが欲しくなっていた。
愛し返される範囲に限界があるのなら、自分がこんなに費やす意味はどこにあるのか。自己満足でなければいけない「応援」が、うまくいかなくなった。

そんな日々が数ヶ月続いた。さすがに何もかもを失う前に行動を起こそうと、心療内科に行ったそうだ。
「やりすぎだね。多分もう、依存症に近いと思う」
最初に医師にそう言われたらしい。正直自分と一番縁遠いと思っていた形に、彼はとまどったそうだ。
依存症というのは、対象(たとえば酒などの物・ギャンブルなどは当たるという行為自体)に触れると発生する、ドーパミンなどの快楽物質が忘れられなくなることを示すのだと言う。いつの間にか対象を通り越し、快楽物質を求めるために対象に寄り掛かってしまう状態になるそうだ。彼の場合は、この対象が「推し」ということになる。
こういう人がある時、はたと対象で快楽物質を得られなくなることがある。すると、どでかい喪失感に襲われて軽い鬱症状などが出る。彼は今、この状態に近いらしい。

「推しを支えるっていうのは、自分が二本足でちゃんと立ってて、初めて背中を押せるものだから。今のあなたは支えるを通り越して寄り掛かって、寄りかかりすぎて、全部倒れちゃってる」
徹頭徹尾その通りで、何も言えずただ泣いたそうだ。自分を正当化するための理由に推しを使っていたのは確かだった。それを人は、寄り掛かっていると言うのだと思った、と。

推しと呼ぶなら、推しというコンテンツに触れ続けなければ。別に一つ失ったぐらいで何でもないはずなのに、そうしたくなかった。できなかった。欠けることが不安になるのは、依存なのだと言う。
脳内の物質を調整する薬を貰ったらしいが、それはそれとして、自分は自分の中で推しとのあり方を治さないといけないと思ったそうだ。
「別に変えたところで、今まであなたが頑張りすぎるぐらい頑張って推した事実は消えないし。きっと少し離れても、推しの中であなたは大事なファンの一人で変わらないよ」

医師は彼にこう言った。脳内の一部の彼は「ぬるいこと言ってんなや」「そういうことじゃないんだわ」と思ったが、それ以上に救われてしまってめちゃくちゃに泣いたそうだ。
彼はきっと、こんなめちゃくちゃで自分勝手で傍迷惑な理由でも、誰かに「頑張っているね」と言われたかったのだ。
オタクなんて、頑張ってすることじゃないのにね。
とまあ、長ったらしく匿名で知り合いのA君の話をさせてもらったのだが、彼と同じような思考のオタクって決して少なくないと思う。彼が長い間麻痺していたように、推しに会うことで快楽物質が得られている間は、多少無理が祟ってもなんてことなくいられるからだ。

酒とか競馬とかのために、と言うとみんなあんまりいい顔しないけど、「推しのために」って口に出すと、献身的で綺麗に見えてしまう罠があるような気がする。だからなおのこと麻痺していく。どれも執着しすぎたら異常なのに。

だから彼みたいになる前に、自分がちゃんと立って歩けてるか、やりすぎではないか立ち返ってほしい。推しててちゃんと楽しいですか。今日も推しが眩しいですか。お金を使うことを使命のように、義務のように感じていないですか。美味い飯食べれてますか。友達とも遊べてますか。ちゃんと寝れていますか。

医師は彼に「今のあなたを推しが見たら、まずは自分のことを大事にしてって言ってくれると思うよ」と言ったそうだ。
もう、容易に想像できた。というか、いつも言ってくれてた。応援はできる範囲でいいんですって。そういう優しいところがずっと好きだと思っているのに、どうにも彼だけはそこにはいないような気がしていた。
まだ好きでいたいから、彼は自分を大事にするところから始めないといけないって思うと言っていた。

みんなも推しと同じくらい、自分のことも大事にしてください。

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