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《君は僕に似ている》

例えば、哲学の場合で言うなら、大きくかけ離れているものの中にさえ類似を見てとるのが、物事を的確につかむ人の本領なのである。
アリストテレス『弁論術』第3巻 第11章 1412a
われわれがヒナギクをめでる理由は、それが──形態において、成長において、色づき方において、そして死ぬことにおいて──生のしるしを示しているところにあるのではないか。ヒナギクに見惚れている者は、ヒナギクと自分との類似に見惚れていると言えるのではないか。
ベイトソン『精神と自然』岩波文庫、p.238-239
《君は僕に似ている》2022年、平面、縦√2m×横2m

 本作は縦√2m、横1mのパネルを二つ並べたものです。このうち一枚の短辺と長辺の比が1:√2であることは言うまでもありませんが、2枚を隙間なく並べた時の作品全体の短辺と長辺の比もまた1:√2になります。(縦√2m、横2m)これら部分と全体は比率が等しい相似関係にあります。なお、基準となる一枚分の短辺の長さ1mとは、もともと地球の赤道から北極までの長さの1000万分の1とされているそうです。つまり星の大きさを基準にして星のかたちを描いている、ということになります。

 描かれた図について、縦√2 m、横1mの長方形の比率を1:(√5+1)/2の長方形に分割し、その過程で作図した五芒星を、短辺を一辺とする正方形で切り取っています。左側の黒い絵は線で、右側の絵は色面で描くことで、それぞれ夜空の星座を繋げるような情景と水平線に大きな星が浮かんでいる情景とを同じかたちで対比させました。一つの大きな星と、無数の星による星座とが自己相似の関係にあります。
 また、1:√2の長方形が長辺を半分にした長方形と比を同じくするように、1:(√5+1)/2の長方形は、その長辺から短辺を一辺とする正方形を引いた残りの長方形と比を同じくします。つまりいずれの長方形も、部分と全体との関係が一定です。たとえ個々の大きさがそれぞれ異なっていても、常に同じ比率、パターンが現れているのです。

哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない
プラトン『国家』第6巻、484B

 右側の長方形の縦横比を1:√2から1:(√5+1)/2に引き直した際、もとの長方形より縦に細長くなるため、絵に余りが発生します。この余りを置くのは右でも左でもまたはその両方でもいいのですが、本作では左側のみに余りを置きました。この余った縦√2mの帯を上から(3−√5)/2:(√5−1)/2:1、つまり(√5−1)/2:1:(√5+1)/2の比率に分割することで、長方形で発生している縦横比を縦のみで表現しています。部分と全体との一定の関係性がここでも反復されているわけですが、縦横の比率が二次元による表現であるのに対して、縦のみで表現される比率は幅や厚みが問題にならないという点で一次元的なものです。

 これまで何度も述べてきたように、部分と全体との相似関係を表現したのが本作です。複雑化した混沌の世界に秩序をもたらす方法として一定の結論を出せたと思います。

生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれ合っているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。われわれの経験する限られた世界で個々の些細な出来事がどうであろうとも、より大きな全体がいつでも美をたたえてそこにあるという信仰を失ってしまっている。
ベイトソン『精神と自然』岩波文庫、p.43

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