気違いになるのに忙しすぎた人~父について(12)
父の死後、父の兄と話をする機会があった。この伯父の家とうちはかなり長い間、絶縁状態になっていた。アルコールの問題も勿論あったろうが、詳しいことはよく知らない。
葉山に住んでいるその伯父が、父の状態が最もひどかったころに何度も父を見舞っていたらしい。熊本まで。20年以上前。全然知らなかった話だった。
おれが大学に進学するころ、父の状態はどんどんエスカレートしていった。東京へ行く前にはおれの頭の悪さを罵倒する言葉のみが(一方的な)コミュニケーションだった。入学式ではネクタイをつけなければ、ということで親戚から結び方を教わった。不憫に思われて「ふつうはこういうことはお父さんから習うものなのにねえ……」と言われたことを覚えている。それから数年が経ち、弟と父の仲が決定的に悪くなる。弟はしばらく行方をくらましたりした。さすがにもう家族関係を続けるのは無理だと思った母は、弟を連れて家を出て、何度目かになる別居が始まった。
その頃――アルコール依存症で独り暮らしをしていた頃――伯父は何度か父のもとを訪れていたという。
あんときはね、と伯父が回想する。気違いんごたる(気違いのような)ことばかり言いよって話にならんとよ。
そうだろうな、と思う。酒を飲んでいた最後の時期はおれも覚えている。いろいろと書いてきたが、この時期はさすがにここには書けないような言動をしていた。奇行、幻覚。だれと話をしているのかわからない、ということも多かった。
その後、自ら職を辞し、これも何度目かになる入院をする(「死ぬのがこわかった」と本人は述懐している)。そこにも伯父は何度か足を運んだらしい。
あの頃、本当は自分がきみたちに救いの手を差し伸べるべきだった、すまなかった、と伯父は言った。その言葉をかけてもらえただけでじゅうぶんだった。
妻子というのは逃げることができる。ただ兄弟というのはそうではないんだろうな、と思った。しかしこれをもっと突き詰めると、その中で完全に他人になることができるのは妻だけだ。兄弟や子どもという関係は一生ついてまわる。母は、母だけは、このろくでもないゲームのテーブルから離れることができた。だがそれをしなかった。道義的責任のようなものをひょっとしたら感じていたのかもしれない。そういう態度が依存症患者をかえって駄目にしてしまう、とか、それは共依存である、とか言われようと。あるいはただ単に好きだったというだけかもしれない。まあこういうことはよくわからない。
ともあれ、伯父と、おれたち兄弟。逃れられないこの3人が、亡くなった後で初めて父親のアルコールの問題についてコミュニケーションをとった。
気違いんごたることばかり言いよって、と叔父は言った。
確かにそうだった。気違いになるのに、忙しすぎた人だった。
何の教訓も残さない父親だった。反面教師ですらない。
気違いであるという足跡をそこかしこに残して父親はいなくなってしまった。さて、わたくしはこれからどう生きていけばいいのか。これがTV番組の『ザ・ノンフィクション』なら話は簡単だ。「記憶と共に……(意味ありげな間。低めのウィスパーがかった声で)これからも歩いていく」なんつうナレーションがついてエンディングを迎えればいい。
しかし実際の人生はアンチクライマックスのまま続いていくし、ナレーションをつけてくれる宮崎あおいもいない。
自分が死んだあとで墓碑銘をつけるとしたら、と考える。二つのことが書いてあればと思う。
「ここに眠る者は、料理をつくることに関しては真面目だった」
母から受け継いだ資質。
もうひとつ。これが付け加われば自分の人生はまあギリうまくいったと言えるんじゃないか。そうなればいいな、と思う。
「少なくとも彼は、アル中ではなかった」
(了)