仕事選びと寂しさについて
働き始めました
私は2024年の4月から働き始めた。諸事情あり、少し珍しい働き方をしている。珍しいうえに、説明も難しい。「どんな仕事してるの?」とは労働者一年目が飽きるほど答える質問だが、私は就職後10か月経ってもクリアな回答を持たない。
説明が難しい仕事ではあるが、面白い仕事ではある。私は生きていく理由の一つにしてもいいぐらいには今の仕事を気に入っている。苦手な業務もあり、失敗もあり、有能な先輩を見てはこんな風になれるんだろうかと思うが、さておきその全部に愛着がある。好きな業務では気づけば手が動いている。ささやかだが、世の中のためにもきっとなっている仕事だ。
説明が難しいのは、むしろ愛着が強すぎるからかもしれない。伝わる説明をするためには、全てを理解してもらうことを諦めて情報に強弱をつけなければならない。よい説明は、完全な説明を諦めることとセットだ。そして今の仕事、私は説明を諦めたくないことばかりだ。とにかくそのぐらい、私は自分の仕事が好きだ。天職だと思う。同世代で私より能力がある人はいくらでもいるが、この仕事を私より楽しめる人は珍しいと自負している。
ちなみに今年のハイライトは、ある一日単位のイベントの最終盤だった。その一日のために一か月ほどさまざまな調整、準備をして、本番当日は一日ずっと気を張って動く。その一日は準備をしてない期間も含めて、一年間の仕事の集大成でもある。だからその一日で達成したい目標は質的にも量的にも明瞭にあった。不確定要素が多いから、当日の朝になっても成功失敗に絶対の確信は持てない。ただ全力を尽くして一日を過ごし、想定した目標の一つを達成した。全部終わってから関係者に感謝を伝えた時、感動がひとりでに言葉を紡いだのを鮮明に覚えている。あの時のカタルシスは、手放しに何かを喜べた感覚は、他で喩えられない。
私の仕事はたまに寂しい
気に入っているだけに、仕事のことを悪く言われるのは辛い。実際悪く言われることはある。「職業に貴賎なし」とは、誰も守らないから格言たりえているんだろう。なにせ私の仕事、悪く言う材料が揃いすぎている。珍しい業種、低賃金、本人に訊いても仕事の説明が要領を得ない。
ただし、おそらく私の説明下手が最も大きな要因なので、私自身のせいでもある。私のことを心配して言葉を選びながら忠告をしてくれる、かけがえのない友達や家族には、伝えきれないほどの感謝と申し訳なさがあるばかりだ。心配かけてごめん。仕事の説明が下手でごめん。生き方が下手でごめん。それでも関わり続けてくれて本当にありがとう。
さておき、基本的に偏見と闘う仕事という側面もあるため、そもそも話すらきいてもらえないこともしばしばだ。ほぼ初対面の人から「そんな仕事をしていないあなたと出会いたかった」と言われたことがある。逆に仕事の中身と必要性を理解している人から、憐れむように「やめときゃいいのにそんな仕事」と言われたこともある。2、3回話した程度で私のこと碌に知りもしないでよく言うなと思うが、驚いたことによくある話だ。
仕事に限らずだろうが、大切にしているものを「そんな」呼ばわりされるのは、もはや一周回って寂しい気持ちになる。子どもの頃は、何事も話し合いを尽くせば理解ぐらいはしてはもらえるだろうと思っていたが、少なくとも私の今の能力では伝えきるのは無理だった。そもそも相手の側に話し合う気がないケースだってあるわけだし。話し合うポーズだけとるけど考えを変える気は全くないケースだってあるわけだし。
この孤独とどう付き合っていけばいいんだろう。私の一年目の仕事の裏テーマは、この問だった。
職業選択と孤独
自分の仕事の中身、なぜその仕事なのか、その仕事にどんな意味があるのか。私はそのどれも、短時間でうまく説明することができない。だから理解されないし、孤独を覚える。この孤独とどう向き合えばいいのか。それともいずれ説明できる日がくるのか。
私は仕事を説明できない孤独に苦しんでいるが、そもそもこの仕事を選んだのは説明できないからだったと気づいた。仕事選びに悩んだ私は最後、考えるための一人旅をして海辺を歩いていた。海は観光客のこない足場の悪い場所で、白骨化した亀の死骸があった。海をしばらく歩いて、私は今の仕事を決意した。
自分の仕事を選ぶとき、理性でいくら考えても結論は出なかった。労働条件の比較だけでいいなら結論は論理的に導かれるが、仕事はそれだけで決めるものじゃないから。仕事を選んだ時、私の直観は確かにこの仕事こそが私の人生を豊かにしてくれると叫んでいた。でも、いくら考えても直観の根拠を理屈で追いきれなかった。その説明できなさこそがむしろ、当時の私の理解が及ばぬものをこの仕事が与えてくれる証明だった。だから私は、ここを選んだ。今振り返ればそうだったとわかる。当時は他にも色んなことを考えていたが、本質は今書いたことで、他の全ては枝葉末節だった。
であれば、私が仕事を説明できずに孤独を感じるのは、必然的で意味のある試練だった。今の職場で私が得ているものの正体を直観ではなく理屈でも分かったとき、私はきっと仕事について説明できるようになっている。今は苦闘しながら説明を試みては失敗し、失敗しては説明を試みることが人生の課題なんだろう。
試練にあるのは私だけではない。確かに私は仕事を説明できずに寂しい思いをしているが、誰もが仕事について腹からわかり合ってなどいない。職業選択の自由は、そうした孤独を前提にしている。誰もが仕事を選んで、違う結論を出していて、だから社会は回っている。そういう意味では誰もが孤独だ。何の仕事に自分の時間を使うのか、答えはみんな違うんだから。多かれ少なかれ、誰もが私と同じ孤独を背負っている。そして選ぶ仕事は違っても関係を結び続けることはできる。
私が感じている寂しさはいずれ私の糧になる寂しさで、そして私だけの寂しさではない。ひとまず自分の仕事を一生懸命に説明してみるのが来年の課題だ。