トーンポリシングと人への畏怖

はじめに

 トーンポリシングとは、主張の内容ではなく主張の方法や態度などで相手を責めることで論点をずらす手法のことである。いわゆる「言い方を考えろ!」的なやつ。とっても広い言葉だから一概に言えることはかなり少ない。トーンポリシングの特定の場合について、まとまらない雑感を述べようと思う。

この記事の対象

 この記事で対象にするのは「内容は妥当だがその言い方では聞いてもらえないよ」というタイプのトーンポリシングだ。つまり第三者的な立場から評価しアドバイスする形をとりながら黙らせるトーンポリシング。
 トーンポリシングには他にも「横で見ていて自分は傷ついた」的なものもある。あるいは「その言い方は相手を害しているからしてはならない」とかも。これに関しては話がとても複雑になる気がするし僕も整理がついていないからまたの機会にしようと思う。一言だけ言っておくなら、この種の主張は正当である場合もあると思う。一方で「傷つき」とか「害され」とかが本人には真実であるとしても不当なものだとしか言えない場合も悲しいことに存在する。いじめられっ子が歯向かった時、いじめっ子は支配欲が満たされないことに被害者意識を持つなんていうのが典型的な例だ。
 とにかく詭弁に関する議論では、安易に既存の類型に頼ることなく個別具体的にその論法を許すことが議論にとって有益か有害かを精査することが必要だ。今回は「第三者的な立場から中心的な内容以外を評価しアドバイスする形で黙らせる」という水準までの具体化を採用する。

アドバイス系トーンポリシングはダサい

 まず言っておきたいが「第三者的な立場から中心的な内容以外を評価しアドバイスする形で黙らせる」という振る舞いはダサい。アドバイスをする立場を自認しながら肝心の内容には第三者的で立場を持っていないというのは、ダサい。
 かっこいいアドバイスというのは背中で語るものだ。言い方が気に入らなかったなら完璧な言い方で他人の至らない部分のフォローを入れながら意見を言えばいい。異なる立場だというなら正面から反論すればいい。どちらでもないなら、その件で建設的に議論する覚悟か力量のどちらかが足りないことの自白だ。それでいながらアドバイスをして賢者ポジションだけは保ちたいというのはあさましい。
 そのダサさとあさましさはバレてる人にはバレてるし、少しずつ信用されなくなっていくと思う。その件について頼まれもしないし貫きたい信念があるわけでもないのに軍師キャラだの賢者ポジだのを狙いに行くのはダサいからやめよう。

アドバイスの陳腐さは見落とされる

 アドバイス系トーンポリシングをしている時、やっている人が見落としているものがある。それはアドバイスが言われなくても既に検討済みである可能性だ。なぜかアドバイス系トーンポリシングは自信たっぷりに、ありがたがれと言わんばかりに行われがちだ。
 そもそも立場を持ってもいない上に中心点について言及しない人のアドバイスがさほど新規性を持っているとは考え難いし、内容も「より穏健に」「より抽象的に」「相手を立てて」あたりの組み合わせのありきたりで常識的なものだ。だから、アドバイスの内容が既に検討されて却下されている可能性を見落とすのは不思議な気もする。

想像力が足りないから?

 どうしてアドバイスの陳腐さが、ひいては検討済みである可能性が見落とされるのか。素朴な回答は想像力の欠如だ。ただ、僕は少しだけ違う気がしている。
 というのも、トーンポリシングがされる時というのは糾弾される人への想像力と忖度がたっぷりとあるものだから。別に想像力が足りないわけではないと思う。
 むしろトーンポリシングをする人の主張には相手を低く見積もるような想像が滲んでいる。「どう受け取られるかに考えが及んでいないんだろう」「我慢できるだろうに努力が足りないんだろう」といった具合に。問題は想像力の欠如ではなく、想像して追いつけるという想定の方だと思う。

人を畏怖しよう

 人のことなんて想像してもだいたいわからない。他人は外から想像するよりも多くのことを考えて行動している。他人を想像しようとすること自体に限界がある。想像しようとするから、自分が権威をおいている存在の考えは奥深く想像してしまうし、自分がしょうもないと思っている存在の考えは浅く想像してしまう。人には想像が及ばないという現実を受け入れたうえですべての人を畏怖して生きていくべきだと僕は常々思っている。


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