那智黒先生
『春』
春眠不覺曉、
處處聞啼鳥。
夜來風雨聲、
花落知多少。
朗々と詠う懐かしい声が聞こえてきて、僕は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。空はぼんやりとした薄曇りで、雲間から溢れる柔らかな光の襞が、満開の辛夷の森へと降り注いでいた。風は無く、澄んだ冷涼な空気の中には花のしっとりとした香りが漂っていて、目覚めたばかりの僕の鼻をくすぐった。目の前には、白い花びらに覆われた小道。大人二人が丁度並んで歩けるぐらいの、獣道と言っていいぐらいの頼りない道だ。
「久しぶりだな、尾崎君。」
声が聞こえた左側を見ると、鼈甲の眼鏡をかけた黒い大きな鴉が、円らな瞳で僕を見上げていた。そうか、目を覚ましたとばかり思っていたが、これは夢だ。昔から、何度も何度も繰り返し見る……
「お久しぶりです、那智黒先生。」
「もう何度目だろうね、ここで君と会うのは。さ、行こか。」
「はい。」
那智黒先生は尋常小学校六年生の時の担任教師で、時々僕の夢に現れるのだが、何故か毎回黒鴉の姿をしている。現実の那智黒先生は勿論れっきとした人間だったのだが、一種異様な風采で、言動にも多少奇天烈なところがあった。身の丈は六尺を超える大男、筋骨隆々で岩山のよう、いつもはちきれそうな背広をキチンと着ていたけれども、どうにも収まらないもじゃもじゃの頭髪は怪奇現象の如く逆立っていた。濃い太眉の下にはギラギラ光る黒目が獣のようで、鼻は恐ろしく高い鷲鼻、口はいつもへの字に曲がっていて、とても学校の先生には見えなかった。鷲鼻の上に乗っている鼈甲の眼鏡だけが、那智黒先生の姿を先生たらしめる唯一のものだった。先生の本名は小野某と言ったが、着任の挨拶で「諸君!吾輩は紀州の那智黒である。好物は茶碗蒸しと梅茶漬け!」と堂々胸を張って宣言したので、校長先生から生徒まで全員が那智黒先生と呼ぶようになった。また、那智黒先生は神出鬼没、悪戯をする生徒の前に突然現れては「コラ!」と吃驚させるので、「あいつは熊野の鴉天狗だ、鴉天狗が教師に化けてやって来たんだ。」と、まことしやかに噂されていた。
その那智黒先生と僕は、いつもと同じように、辛夷に覆われた道をテクテクと歩き始めた。むせかえるような花の匂いに、彼方此方から聞こえてくる野鳥の声。愛おしく懐かしい、北国の春だ。僕は急に泣きたい気持ちになったが、それを那智黒先生に知られるのは何だか恥ずかしかったので、先生が歩いている方とは反対側の、右側の辛夷の森に顔を向け、鳴いている野鳥の姿を探し出そうと目を凝らした。
「春は、何度来ても良いものだなあ、尾崎君。」
「はい。……あの、那智黒先生。」
「何かね。」
「あそこに見える鳥たちは、教頭先生や田中先生ですか。」
「尾崎君、あれはどう見ても鳥だろう。教頭先生や田中先生はいつから鳥になったのだね。」
「那智黒先生は鴉になったじゃありませんか。先生が鴉なら、きっと教頭先生は梟、田中先生は鶯でしょう。」
「ううむ。そうすると、校長先生は禿鷲だろうな。」
那智黒先生は熊野の鴉天狗の如く「カッ、カッ、カッ。」と笑った。僕が先生の方を向くと、その輝く黒い瞳は僕の顔をじっと見ていた。先生の姿は相変わらず鴉だったが、僕には、先生が神妙な面持ちでいるのがわかった。
「ここでは、皆が思った通りの姿になるようだ。」
「皆が……思った通りの姿。」
「左様。皆が『那智黒は熊野の鴉天狗だ。』と言っておったろう、そのせいで那智黒先生は鴉の姿になってしまった。全くけしからん。」
「僕はそんな事は言っておりません。」
「一度もか。」
「一度もです。……第一、先生は本当に紀州出身なのですか。」
「実を言うとな、生まれは紀州、育ちは東京。那智黒と呼ばれるようになったのは、東京に移ってからであった。」
「矢っ張り。」
「うむ、しかし待てよ……案外、鴉天狗呼ばわりで良かったのかもしれん。万が一にも、那智黒岩石先生などと言われておったら、今頃尾崎君の隣には、黒い石ころが一つ、ころころ転がっていたかもしれん。」
「はあ……。あれ、でも僕は人間のままですよ。」
僕は立ち止まり、自分の身体が間違いなく人間のものであることを確認した。情けないぐらい色白でヒョロリと長い、僕の手足、身体……何故か中学校の制服を来ていた。
「尾崎君は、色白で頭が大きいから蕪と呼ばれていただろう。君の頭は今、蕪の形をしている。」
「蕪。」
僕は慌てて自分の顔に触れてみた。確かに、顔の表面はしっとり冷たくてツルツル、時々ちょぼちょぼと髭らしきものが生えており、頭の上では茎と葉がふさふさ揺れていた。
「でも先生、不幸中の幸いか、僕の身体は人間のままです。ホラ、中学校の制服を着ています。」
「成る程、尾崎君も立派な蕪になったものだ。」
「蕪でも服は着ています。でも、先生には眼鏡しかありませんね。」
「左様。すっぽんぽんの素っ裸!」
那智黒先生は翼をバサバサさせて、素っ頓狂な声を上げた。先生の翼から風が起こり、地面に落ちている辛夷の花びらが舞い上がった。
先生にはとても言えないが、黒鴉の姿は先生に似合っていた……いや、先生そのものだった。
「先生、ところで、どうして……。」
僕の質問が聞こえているのかいないのか、先生はさらに翼をはばたかせ、風はどんどん強くなった。辛夷の森の木々はユッサユッサと揺れ、白い花びらが上から下から吹雪のように舞い、空中を踊り狂った。
「先生、先生、那智黒先生……。」
やがて、世界は真っ白になった。
オカアサン、オカアサン。
『夏』
「カア!」
耳元で誰かが大声を出したので僕は吃驚して飛び退いたが、丁度そこに生えていた木に背骨をしこたま打ちつけてしまった。
「痛。」
「痛むのはどこかね。」
背中を摩りながら辺りを見回すと、乾いた小道の上に、鼈甲眼鏡の黒鴉が一羽。そして周囲には、青々と茂ったニセアカシアの木々に、響き渡るミンミンゼミの声。温い風が吹き抜ける度に小さな木の葉たちが揺れ、透明で硬質な太陽の光をキラキラと反射していた。
「……夏だ。」
「夏が痛むのかね。」
「那智黒先生。」
夢から覚めたような感覚だった。彼方此方に散らかっていた記憶が徐々に僕の脳髄に集まり、一つの塊を作り出した。そうだ、僕は那智黒先生とこの道を歩いていたのだ。白い花びらでいっぱいの、春の小道を。
「痛むのは、腹ではないのか。」
先生は鴉の足でよちよち近寄ってきて、鼈甲眼鏡の奥の黒い瞳で心配そうに僕を見た。僕がぶつけたのは背中なのに、先生は何故腹具合なんかを心配しているのか理由はわからなかった。だが、痛みよりも、僕にはもっと他に気になる事があった。
「もう何処も痛くはありません。」
「そうか、それは良かった。」
「それよりも、先生、春はどこへ行ってしまったのでしょうか。」
「春が去ったのではない。我々が夏に到達したのだ。尾崎君、夏は嫌いか。」
「いえ、そんな事は……。」
「正直に言いなさい。」
那智黒先生の瞳が、ずずいと迫って来た。鴉の姿になっても、先生の瞳の素晴らしい輝きはそのままだった。何もかもを見透かすような、賢者の眼。僕は自分の脳髄の中に渦巻いているハッキリしない何かを、どうにかして先生に話さなければならない気持ちになった。
「……昔は、好きだったんです、夏。夏というと、毎年家族五人で汽車に乗って、祖父の家へ遊びに行きました。」
僕は目を閉じ、記憶を手繰り寄せた。懐かしい、あの季節の記憶。
「……従兄弟と海で泳いだり、ツブを獲ったり……。ご存知ですか、ツブはアブラを取らないと中ってエライ事になるんです。酒と醤油で煮て、爪楊枝で身をつるんと取り出したら、アブラを噛み切るんです。本当に美味かったなあ、本当に……。それから、勝利と花江と一緒にカキ氷を食べて、三人で頭がキーンとなって……。青空からは入道雲が見下ろしていて、太陽が燦々眩しくて……。そう、太陽。確かに眩しいんですが、北では、夏の太陽は優しいんです。僕にとって夏は、春の次に好きな季節でした。でも、もう……。」
僕にはこれ以上言えなかった。春に泣きたくなったのと同様理由はわからなかったが、今「それ」をここでは言いたくないと、僕の心の臓が脳に向かって訴えているようだった。動悸が早まり、食道から喉元に向かって何かが込み上げ、息苦しくなった。そして、太陽が見えた。懐かしく控え目な北の太陽ではない、あの、ギラギラした、照りつける、死の匂いがする……。
不思議な事に、那智黒先生は、僕が思っている事を全部わかっているようだった。
「そうか、そうか……わかった。では、早く次の季節へ向かうとしようか。」
「次。秋もあるのですか。」
「春、夏、と来れば、次は秋であろう。日本には四季がある事、忘れたわけではなかろうに。寝ぼけた事を言っていないで、さあ、歩くぞ。」
「先生は飛ばないのですか。翼があれば、秋へひとっ飛びでしょう。」
「飛べるわけなかろうが。ほれほれ。」
先生が翼で僕を叩いて急かすので、僕は仕方なく夏の小道を歩き始めた。だが、歩き始めてから程なくして、一つだけ、どうしても先生に言わなければならない事があるのを思い出した。
「先生。僕の弟の、勝利を覚えていますか。」
「自分の生徒を忘れる教師はおらんよ。勝利君は元気にしておるか。」
「ずっと元気でした。でも、新天地で農業をやると言って家を出たまま、手紙ひとつ寄越さないのです。」
「新天地……満州か、はたまた……。よし、君を送ったら、勝利君を探してみるとしよう。」
「ありがとうございます、先生。でも、僕を送るって、どこへ……。」
と、空が急に暗くなり、ポツリ、ポツリと生温い雫が僕の鼻面を叩いた。辺りにはムッと生臭い雨の臭いが立ち込めているのにどうして気がつかなかったのだろう、そう思った時にはもう遅かった。
「夕立だ、木の下に入りなさい!」
先生が最後まで言い終わらぬうちに、タライをひっくり返したような猛烈な豪雨が僕たちを打ちつけた。降ってくる雨と地面に当たって跳ね返る雨で視界は真っ白、僕の蕪頭の茎と葉は滅茶苦茶に煽られて引き千切られそうだった。着ている制服はずぶ濡れで、グングンと体温が下がり始めていた。
「先生、先生!」
僕は鴉になった那智黒先生が雨に押しつぶされやしないかと心配になったが、すぐ傍にいた筈の先生の姿は見えず、どちら側に行けばニセアカシアの木があるのかもわからず、道の真ん中で立ち往生した。
「先生、先生!」
先生を呼ぶ口の中に、雨水がベチャベチャと流れ込む。
何故だろう。泥と錆の味がした。
『秋』
カサカサ、カサカサ。
この音は何だろう。そしてこの臭い……この変な臭いは。
「茶碗蒸しには矢っ張りギンナンだなあ、尾崎君!」
瞼を開くと、僕は黄金の世界の中に座り込んでいて、黒鴉の那智黒先生が茶碗蒸しに嘴を突っ込んでいた。
「先生、その茶碗蒸しは何処から。」
「母の手作りである。それよりも尾崎君、銀杏の実を尻の下に敷いているぞ。ああ、勿体無い。」
「銀杏。」
慌てて立ち上がったが、ズボンの尻に潰れた銀杏が何粒か張り付いており、特有の嫌な臭いを放っていた。叩き落としたものの、染みが残ってしまった。
「染みになってしまいました。」
「そんなもの、放っておけ。そのうち消えて無くなるだろう。いつまでもクヨクヨ忘れないでいると消えないぞ。」
「そういうものでしょうか。」
「そういうものだ。」
那智黒先生は茶碗蒸しを平らげてしまったようで、空っぽの器を傍に置いたが、その上にも次から次へと銀杏の葉が落ちてきた。銀杏、銀杏、銀杏、ハラハラバラバラ降ってくる豊かな秋。僕たちは一年の締め括りに向けて葉と実を振り落とす、黄金色の木々に囲まれていた。
「さて、もう行かねば。こうもワンサカ降られると、進むべき道どころか、我々も埋め尽くされてしまう。」
先生が歩き始めたので、僕も急いで後を追った。葉が積もった地面は驚く程柔らかく、夕日に照らされた金色の雲の上を歩いているようだった。
「あの、先生。」
「何だね。」
「僕は、先生と夢の中で何度も一緒に歩きましたが、夏の道や、秋の道を歩いたのは初めてです。世界はいつも、春だけだった。」
「尾崎君。」
先生は立ち止まり、茜色の空を見上げた。鼈甲眼鏡の後ろで、黒い瞳は夕日を映し、燃えるように輝いていた。
「君は、何故こちら側が、この場所が夢だと思う。」
「エッ……。何故って……先生は鴉だし、僕は蕪頭の中学生だから、この場所は現実ではないと思います。現実では先生は人間だし、僕は蕪頭でも中学生でもなく……僕は。」
唐突な問いかけに、僕はしどろもどろになってしまった。そういえば、先生は今まで一度として、この夢の事を「夢」だと言った事がなかった。そもそも、夢と現実について言及したのは、この瞬間が初めてだった。
「先生の本質は鴉ではないが、皆が鴉だと思うから鴉の姿になっているに過ぎない。君の蕪頭も同様、君自身の本質ではなかろう。目に見える姿など、この世界を夢と断定する材料にはならんのだよ。そもそも、アチラ側が現実だと、一体誰が決めたのだ。」
「では、先生は、今いるこの世界が現実で、現実の世界が夢であると言うのですか。」
「左様。正確に言うと、この道は、夢と現実を繋ぐ回廊のようなものである。行くは現実、戻るは夢。」
「では、この先にあるのが本当の現実……。でも、そんな事って。」
「吾輩は紀州の鴉天狗、その神通力を持ってして、夢に迷いし生徒らを素晴らしき現実世界へと導くのである!」
鴉の姿の那智黒先生は鳩のように胸を張り、あの着任式の時と同じく堂々宣言した。先生の黒く濡れたような美しい羽が、夕日の色を反射して艶やかに輝いていた。
「それにだね。」
先生は前方に向き直り、低い声でつぶやいた。声と共に、その肩をガックリと落として。
「泥水しか口にするものがない生き地獄で、腹に銃弾を食らい、ハラワタを垂らしたまま死にきれぬアチラ側の方が、悪夢のようだとは思わんか。吾輩鴉天狗は……那智黒先生は……君たちをあんな悪夢の中に送り込む為に教師になったのではない……。」
那智黒先生の黒い瞳は、濡れているようだった。
オトウサン、オカアサン、カツトシ、ハナエ。
ナチグロセンセイ。
『冬』
もうどのぐらい歩いたのかわからないが、不思議と身体に疲れは感じない。先生と僕はずっとずっと歩き続けた。そのうちに銀杏は葉を落としきって丸裸、それを照らす太陽も今は遠い地平線に沈みかけ、空には紺色の帷がゆるりと垂れ下がっていた。秋の彩りと豊穣の匂いはすっかり姿を消し、どこからか現れた真っ白な雪虫がふらふら飛んできては、次から次へと顔に張り付く。
「先生。」
「喋ると口に雪虫が入るぞ。」
那智黒先生の言う通り、「先生」と一言言っただけで数匹の雪虫が口の中に入ってきた。僕がペッ、ペッと吐き出すと、地面に落ちた唾液は最初真っ赤な色に見えたが、すぐに黒ずみ、雪虫と一緒に土の中に消えていった。
昔、勝利と一緒に雪虫を何匹も捕まえて、家に持ち帰ったことがある。雪虫はほとんどが潰れて死んでおり、まだ動いているものも虫の息だった。虫嫌いの母は怒り、まだ小さかった花江は「雪虫が可哀想。」と泣いた。僕は雪虫よりも花江が可哀想で申し訳ない気持ちになったものだった。
「何だ、何か面白い事でも思い出したのか。」
蕪頭の葉がサワサワ揺れ、心のざわめきを先生に気づかれてしまった。ふと見ると、僕を見上げる先生の黒い頭には、何か白いものがくっついている。
「先生、頭に雪虫が。」
僕は、頭に雪虫が張りついていますよと言いかけ、それが本物の雪である事に気づいた。
ついに、冬が来た。
いや、冬に来てしまったのだ。
いつの間にか雪虫の集団と裸の木立は消え、道は黒々とした針葉樹に囲まれていた。すっかり闇に飲まれた夜空は雲に覆われ、白い雪がシンシン、シンシンと降っている。
「先生、足、凍れませんか。僕が先生を運びますか。」
「この程度で寒がる鴉がどこにいる。」
「確かに……でも、もし本当に辛ければ。」
先生は前を向いたまま、返事をしない。吐く息は白く、空気の中に溶けてゆく。きっと、僕たちの吐息は、大気の流れに乗って天まで昇り、絶対零度に冷やされ、雪となって再び大地に戻るのだろう。僕が遙か遠い国で吐いた最後のひと息も、天をぐるりと巡ったその後は、懐かしき北国の土の上、綺麗な雪の結晶となって積み重なるのだ。
「……尾崎君。君は、恋をしたことがあるかね。」
その問いの意味するところがわからず、僕は少し困惑した。先生は俯き加減で、何か思い詰めているように見える。
「いいえ。」
「ただの一度も、誰かを好きになった事がないのか。」
「はい。」
「そうか……一度も……。いかんなあ、こんなに辛い話があってたまるものか。」
先生は絞り出すように言った。恋の経験が無いのは、そんなに残念な事なのだろうか。
「先生、僕は恋については、それがどんなものかすら皆目見当もつきません。ですが、僕はとても幸福でした。友達は皆面白いやつばかりで、勉強するのも楽しくて。先生、覚えていますか、校庭での雪合戦。たまたま通りすがった校長先生の頭に、先生の豪速球がドカンと命中したのを。それから、白石君がストーブで焼き芋商売を始めたのを先生に見つかって、芋を両手に持ったまま、窓から逃げて行ったのを。」
「ありゃあ、まるで芋泥棒だったな。」
「はい、本当に面白くて、楽しくて、楽しくて……。あの幸福がずっと続けばいいと思いました。僕は、まだ学生でいたかった。でも、終わらないものは、この世に無いんです。」
「そうだな。」
「先生。この道も、そろそろ終わるんですね。」
僕は知っている、いや、ずっと前から知っていた。この道は永遠に続くものではなく、先生と僕は別れなければならない事を。一寸程積もった新雪の上に、砕けそうな古革靴をキュ、キュと進める度、先生との時間が終わりに近づく。
「やがて川岸が見えてくるだろう、そこがこの散歩の終着点だ。君は船に乗り、その先の道を進み続けなければならない。」
「川岸に着いたら,先生はどうされるのですか。」
「約束通り、勝利君を探しに行く。」
「もし勝利を見つけたら。」
「全ての生徒たちを見送るまで、この回廊を歩き続けるだろう。そして、その後は……。」
そこで先生は一つ深い呼吸をし、声高らかに。
「吾輩は鴉天狗である。全てを終えたら、天狗が居るべき場所、梅の香かおる我が故郷、紀州へと帰るだろう。」
降り積もる雪だけが、夜道を照らす淡い光を放っている。先生と僕の旅路が終わりに近づくにつれ、その光は少しずつ強くなっているようだった。
僕らを導くこの雪は、一体誰の吐息だろう。
冬が終われば、また春が来る。
春が来たら、全ては土に溶ける。
そうしたら、僕たちは、辛夷の花びらを胸に抱いて眠るのだ。
春眠不覺曉、
處處聞啼鳥。
夜來風雨聲、
花落知多少。
<後書き>
勿論全てフィクションです。
郷愁を詰め込みました。
紀州の言葉、書くことが出来ればよかったのですが。
辛夷の写真があればよかったのですが。