018:心の解放
SM-BASHのイベントで初めて緊縛体験をしたのが9月。
なんとまだ4ヶ月しか経っていない。
この4ヶ月間ですっかり緊縛が好きになって、しまいには人生初購入のAVがBL緊縛モノとなった。
とはいえ正直まだ知らない見たことのない有名な緊縛師さんも多いので私なんてペーペーだ。
緊縛に潜む普遍性ついて真面目に考えたことは以前の記事があるので一旦そちらへどうぞ。
私はSだともMだとも言い難い。
ただ一定以上の情があれば相手の求めることに応じたいとは思う。
責められたいなら責めるし責めたいなら受ける。
情といっても別に恋愛関係に限らないので広い意味で相手へなにかしら心があれば。
(私は多分ひとのことを興味があるかないかで分けていて、興味さえあれば大抵のことは受け入れられる。だから情≒興味かも)
そもそもMだから絶対縄が好きなわけでもないし、縄が好きだから絶対にMである必要もないと思っている。
好きになりだした頃に「Mでもないし縄で感じるわけでもないからどうリアクションするのが正解かわからない」と縛り手さん側に聞いてみたことがある。
それは違うと言われた。
ただ目の前の縄と相手だけに集中していればそれでいいとのことだった。
ショーで観る受け手さんは声や表情や動きがはっきりしているけれど、それが正解でも模範でもない。
いろいろな人に縛ってみてもらった中でそこに若干の後ろめたさがあったので心が楽になった。
人はいつもひとつのことだけ思考して生きてはいない。
芝居をしていた頃に言われたことだ。
別れ話をしながら明日の仕事のことを考えていたり、笑いながら腰痛いなあなんて思っていたりする。
だから極限に自然な演技はセリフの感情100%で話さないで他の要素を調合する必要があると。
大人になって仕事をしてひとりで生計立てて生きていると沢山のことが降りかかる。
今のこと、明日のこと、数年先から数十年後のこと。
何かひとつだけでいることを許されない。
縄を受けるとき、身体に触れる縄以外になにも考えない。
考えなくていい。
その数十分はすべての現実を、他人を放り投げていい。
言動も表情も体裁を整えたりしなくていい。
身体は動かせないからなにも動かなくていい。
なにもしなくても赦されるひとときを与えてもらえるから、縛りが好きだ。
縛る相手もまたこちらの肉体を、命を預かる身なので、縄をもつ間は目の前のひとりに全てを集中している。
してくれる。
周りにどんなにオーディエンスがいようと縛り縛られるその時間と空間はふたりきりのもの。
私の場合はむしろ周りに人がいたほうが現実と隔絶された輪郭がはっきり感じられるので良い。
肉体の拘束とは反して、心はすべての重荷を下ろしていられる。
自主的に下ろせない荷物だから人に下させてもらう。
現実の世界から足を離すということを、文字通り手綱を握るその人に掘り起こされ、そして赦される。
私にとっての縛りは、今は一旦そんな存在。