おじいちゃんの足を探したかった 3
結論から言うと、祖父の軍歴を証明する記録は残っていなかった。祖父が従軍したのは日中戦争だったからか、懐かしい地元のイントネーションで話す県職員さんから電話がきて「こちらには○○さんの記録は昭和三十ナントカ年(忘れた)から恩給の支給が開始された、ということしか残っておりません」とのことだった。実家を大捜索すれば何か手がかりになるものが出てくるかもしれないけど、実家は幼稚園児と小学生を抱えた主婦がカジュアルに「ちょっと実家行ってくるわ」と言って行けるような距離ではないのだ。
そんな折、というか今日のニュースで、福岡県北九州市にある小倉陸軍病院の跡地で、戦時中に負傷した兵士の治療中に摘出された銃弾や砲弾の破片などが大量に発見されたという。祖父が中国で足を負傷し、日本に帰ってからしばらく入院していたのがまさにこの小倉の陸軍病院だったのだ。実家でまだ祖母が存命中に古い写真を見ていて、小倉陸軍病院に入院していた当時の写真も見た記憶があるし、復員後に結婚した祖母を連れて、知り合いを見舞いに行った話も聞いたことがあった。一瞬、まさか、祖父の足は北九州の地面に!?とも考えたが、物心ついてからの記憶をひっくり返してもちぎれそうな足を抱えて日本に帰ってきた、などという話は誰からも聞いたことないので祖父の足はやはり中国のどこかに今も埋まってるんだろう。
一時期、祖父は義足を使っていた時代もあったらしく、祖父母の結婚式の写真では祖父は両足で祖母の傍らに立っていた。足を太ももの中間から切断した祖父の使っていた義足は肩から吊っていたと父から聞いたことがある。この義足は祖父が亡くなった後もしばらく実家に残っていて、それは固くて重いマネキンの足そのもののようだった。片足は自分とはなればなれになり遠い異国の地面の下、自分は亡くなって先祖代々の眠る墓のメンバーになったが、死後も義足だけは実家の梅干しを干すときに使う大きなザルの横に置かれている、我が実家の梅干しザルの付近はその頃ちょっとシュールであった。普通の家にはそんな無造作に置かれてる義足なんてあんまりないもんな。
というわけで、祖父の足が大陸のどの辺に埋まっているのかはいまだにわからない。これからも心の片隅に置いて探すチャンスは伺うつもりだけど。
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