【ようやっとの舞台噺ほにゃらか③】劇団Q+第9回本公演『マミーブルー』を観てきましたよ、という話
結論から言おう!!・・・・・・・・こんにちは。(*´罒`*)
なんともヌルっと過ごしてしまったGWも彼方…気が付いたらもう6月に差し掛かりまして青空に残された私の心は夏模様なんですが、たしか高校二年生の夏にだけ校内の運動部員の中でやたらとチタンネックレスが流行ってたのをふと思い出した、O次郎です。
今日はいつものような映画でもドラマでも「コミックボンボン」でも思い出話でもなく、最近鑑賞した演劇の感想のお話です。
普段書いてる記事の中でまるっきりそっち方面の話題を出してないのが我ながらなんともなぁとも思うのですが、アマチュアの劇団に所属していて週末に集まって稽古したりなんだかやとやっておりまして、その方面の先輩が外部出演する公演を観に行って来た、という次第でございます。
映画なんかと比べて期間的にも料金的にもアクセス的にも心理的なバリアが働いてしまうので、自分としてもついつい映像作品に向かいがちなのですが、そのハードルゆえに観る此方側も演じる側の一回性から来る緊張感にがっぷり向き合う"力み"を求められるのは演劇の快さだな~とあらためて思いました。
上記の経緯ゆえに劇団の過去作との比較等では語れませんが、今回上演作品に関して感じたあれこれを書いてみようと思います。
それでは・・・・・・・・・・・"フットバッグ"!!
Ⅰ. 作品概要と感じたあれやこれやと
(あらすじ引用)
水には記憶が宿るという。
ならば海は私たちの想いのるつぼ。
その断片がしぶきをあげて、寄せてはかえし――寄せてはかえし――
陸にくらす私たちに、「思ヒ出セヨ」とささやいている。
雨が降りつづく海辺の村。
嘘か真か、遠く沖に人魚があらわれるという。
そのうわさを聞きつけて、ある男がやって来た。
人々の思惑が交錯し、混迷の渦が巻きおこる。
寂れた寒村を舞台に幼くして母を亡くした思春期の少女とその経緯ゆえに愛情深くも過保護に接する父とのぶつかり合いを軸として、降って湧いた村の開発計画に対する村民の是々非々のコミュニティー模様や、さらにはそのガラパゴス的ユートピアが戦争というナショナリズムに塗り潰されていく悲劇を描いた多層的なグラデーションの物語。
まずもって目を惹かれたのが物語の要所で展開される人魚たちの舞踊で、総出演者が二十名ほども居るかなりの大所帯の中に在って踊り専門のキャストの方々も相当数居らっしゃり、相当息が合っているうえに会場を立体的に活用することでこの世ならざる没入感は見事なものでした。
"人魚"というと、タイムリーにも今月実写映画が封切られるネズミ―さんのあのビジュアルが遍く世帯に刷り込まれているかと察しますが、ああした多分にキャラクタライズされたアイコンとは対極の静謐で浮世離れした衣装と意匠がなんともいえない人外の神秘性を担保していました。
さらに言うと、村人をはじめとした住民ひいては外界からの来訪者までもがそれぞれ時代性や地域性を推し量りかねるある種奇抜な衣装でしたが、そうしたメインストーリー全体を包む無国籍間や超時代感が"家族"や"村落"といった極私的で普遍的なテーマを引き立たせてもいたし、"人魚の存在し得る世界"の説得力にも寄与していたように思います。
また、作中の節目節目に入る場面転換で暗転させずに転換自体を演出していたのが非常に印象的で、"新しいことをやりたい"という作り手側の意欲を、観客の興味を散漫にさせない加減でギュッと濃縮させた塩梅が見事だったと思います。
全体的に悲劇ベースながら、所々に盛り込まれていた緩急の付いた笑いもなかなかにユーザーライクでした…キャストさんによってはスベるのを本能で恐れてか、ボケを振り切りかねている様子も見られはしましたが。(゜Д゜)
主人公の父の旧友である都の商人が村を訪れたことで俄かに物語が動き出し、村の伝承の人魚を名物として観光客を誘致して町興しをしようという彼の山師の如き甘言を前に村の行く末を巡っての一悶着…。
浜で人魚を見たと無邪気にはしゃぐ少年少女達と、世迷言はさておき確固たる経済基盤としての村を次の世代に託したい大人たちの親心が、巡り巡って村の開発に対するスタンスの違いという形で軋轢を生みます。
海難事故によって妻を亡くした父が主人公を海から遠ざける…目の前に見えている世界に対して良きも悪きも身を以て学びたいのに身近な大人の独善的な思い遣りに阻まれてそれが自分の世界の息苦しさに直結してしまう。誰しも少年期に抱える煩悶ですし、日頃から溜りに溜まっていたそれが些細なきっかけで噴出してしまうのも然りです。
ここで突如として中央のお役人達が現れ、"黒船来航"という国家存亡の危機をダシにナショナリズムを煽られて一致団結を強要され、"砲台の要衝"として村と村人が規定されていってしまいます。
ここに来て俄かに時代と地域が現実味を帯び、国家のイデオロギーに村と人が塗り潰されていくのですが・・・。
個人的にはここで展開としてもうワンクッション有れば尚良かったのでは、と思います。即ち、主人公を含めた少年少女たちが村を出て世間を知るべく都会へ旅立つシークエンスです。
寂れた田舎の開発に対する世代間の意識のズレや、なんとしても子を守りたい親と広い世間を知りたい子の相克、そして気心の知れた仲間と慣れ親しんだ土地で安寧の日々を重ねたい気持ちと裸一貫で見知らぬ土地で己の身を立てたい気概。
それまでの物語で示された遍く地方生活に共通するそうしたテーマの数々が勇躍する前に戦争に一緒くたに均された感が否めず、前述のレイヤー構造の料理として勿体無い思いもしてしまいました。
主人公と父の衝突の延長として彼女が村を飛び出せばそれまでに提示されたテーマと地続きで、離れて暮らす中で子は生活経済の厳しさから親心を知り、親は人として真っ当に在りたい子の純心さに思いを至らせるお互いの冷却期間も担保し得たのではと。
そのうえで主人公を含めた村の若人がそれぞれの出立先での瓦版なりで郷里の村が戦禍に巻き込まれようとしている報を聞き知り、慌てて帰郷すると果たして村と親は・・・と推移すれば観ている側のテーマ理解と感情移入もより高まったかも、、、というのは後出しジャンケン的感想でしょうか。
砲台に絡めて照明と砲弾の轟音のみで以て戦禍を表現する手法は見事でしたが、もし歌い踊る人魚たちが刹那、砲火に晒されればより画として劇的だったかも。
一方で、そうした無数の親子や隣人の悲喜交々を何の前触れも無く塗りつぶしてしまうのが戦争であって、"国難"の大義名分の下に否応無く団結を脅迫するのはまさにその通りであり、そうした意味では戦乱そのものではあったのですが。
それだけに根本的な和解を果たせぬまま永遠の別離を迎えた父子の結末の悲劇は筆舌に尽くしがたく、その父の無念と怨嗟の絶叫は戦争に蹂躙された村と村人の総意そのもののような迫力でした。まさに一本の演劇のクライマックスを飾るもので、これぞ演劇ゆえの熱量だったと思います。
ただ、上記のような一足飛びの戦禍ゆえに気持ちが追い付かなかったこともあって、個人的には観ている此方がしんどくなるほどの圧だったのも正直なところであり、そこから顧みるに、全体的な役者さん方のボルテージも高潮で均されていてもう少し各人の緩急を付けて欲しかったのはあるかもしれません。
特に序盤の主人公を含めた少年少女たちの一様な燥ぎようはやや年齢不相応の幼さにも映り、もしモラトリアムからの卒業に対する各人の温度差がそこで確と出ていれば、その後の登場人物と物語への観客からの感情移入にも大いに与したようにも思った面は有ります。
あと、設定的なところでいえば、ずっと村に降りしきってるという長雨が明確に視覚的・雰囲気的に生きる場面が有ればより良かったかも。
ともあれ、普遍的なファミリーの物語でありながらも多層構造をたたえており、幻想的な人魚の世界と超時代的な意匠が組み合わさって、まさしく"空間"を楽しめる、演劇ならではの妙味を頭から尻尾まで感じられる作品でした。
Ⅱ. おしまいに
というわけで今回は知人の客演していた劇団Q+さんの第9回本公演『マミーブルー』の感想文でした。
舞台装置関係でいうと建付けの扉の設置や転換がどうにも難儀するのがあるあるの一つかと思いますが、本公演ではポールを扉に見立てる工夫が凝らされており、観客にそれとして判らせつつ移動の手間を省略させつつ、背景の画の邪魔にならないという一石三鳥で目から鱗でした。
過去の同劇団さんの作品を鑑賞していないうえにそもそもからして演劇鑑賞の感想を普段から書いてるわけでもないので恐縮な記事でしたが、だからこそのせっかくの機会の記憶をしかと、ということでご容赦をば。
今回はこのへんにて。
それでは・・・・・・どうぞよしなに。
※書いてる今まさに台風の影響で大雨の真っ最中ですが、大雨になるといつもこのコント思い出しちゃう…。(⦿_⦿)